重いおとなの責任
平成15年2月号掲載
今年の元旦放送《山陽放送ラジオ》の教主様のご挨拶(あいさつ)です。
青少年の教育は、いつの世、どの国にあっても最も重要視され努められるべきことですが、それは彼らの手をとり足をとって教えるということではなくて、健全に成長するにふさわしい場を与え、チャンスを提供することだと思います。
昨年の秋、私ども黒住教本部のあります神道山に、お隣りの兵庫県から一人の車椅子の方がお参りになりました。
神道山という所は岡山駅から真西六キロほどの小高い山で、古来吉備の中山と呼ばれる山の東南に位置します。東北には吉備津彦神社、西北には吉備津神社の鎮座するいわば神々の山ですが、黒住教では、教祖以来、毎朝日の出を迎え拝(おろが)む日拝という祈りのときを最も大切にしていますところから、数えて三十年前の昭和四十九年の秋、今も宗忠神社のあります大元から壮大なお日の出を求めてこの神道山に移り上がってきました。低い山ですが、お年寄りや車椅子の方には参拝も容易でないことから、先年、信者の皆さん、黒住教ではお道づれといいますが、その皆さんのまごころの奉仕によって“動く参道”と称するエスカレーターのようないわばバリアフリーの参道が造られました。おかげで、足の不自由な方々も楽々とお参りができるようになっています。
昨年秋来られた車椅子の方もそういう中の一人だったわけですが、この方は、割り箸を使って自ら作ったという高さ40~50cmの精巧にできた「五重の塔」を持参されました。聞けばこの人は大工さんで、しかも昔ながらの技をもった職人として土地では有名だったのですが、数年前に仕事中に誤って屋根から落ちて脊椎(せきつい)を損傷し、車椅子の生活になったとのことでした。男子が一生をかけてきた仕事のできないつらさ、無念さ、その自分でも御(ぎょ)しがたい思いに、日夜酒びたりの毎日となってしまっていました。
それが一昨年夏のことです。私どもの青年たちが企画して執り行った“夏休み家族伊勢まいり”、これは小中学生の子供とその親御さん方を伊勢神宮に連れて参ったもので、各地から夏休みの一泊二日間、多くの子供たちが伊勢神宮の大前に頭を垂れました。この伊勢参りに、この方のお孫さんも参加していて、帰宅した孫娘に、この方は早速、大御神様に何をお祈りしたのかと尋ねました。すると、おじいちゃんが元気で、自分が大きくなってお嫁にいくときまで生きていて花嫁姿を見てもらえるようにと祈ったと言うのでした。この人は大粒の涙をこぼしながら孫娘を抱き寄せ、その日からプッツリお酒を止めてしまい、その内、習い憶(おぼ)えた手(て)技(わざ)でもってミニチュアの建物を作り始めたといいます。昨年は、身体障害の方々が作る作品展において、兵庫県知事賞を受けるまでになったということでした。
私はその見事な作品「五重の塔」に感服しましたが、それにもまして、この方の家庭のなごやかさが伝わってきて胸熱くなりました。この家庭にあっては、この方の重い障害も逆にしっかりとした幸せを生む元、素晴らしい少女を育てる元になっているのでした。
話は変わりますが、先ほど申しました大元の宗忠神社近くにあるその名も大元小学校は、昨年創立三十年を迎え、旧臘(ろう)その式典を執り行いました。これはそれまでの西小学校、鹿田小学校から分離・統合・新設という、その当時としては珍しい形で生まれた小学校でした。
新設なった校舎に生徒が通い始めたのは昭和四十八年九月、二学期からだったと思います。初代校長の妹尾康夫という先生は、六年生全員に自分たちの使っていた机椅子を夏休みの一日、鹿田、西の両小学校の教室から当時まだここかしこにあったリアカーに乗せて運搬させました。この事は、結成されて間もないPTAで大問題となりました。曰(いわ)く「子供が熱を出して寝込んでしまった」、曰く「あまりに疲れが激しくて夕食も取れなかった…」等々という不平不満が押し寄せてきたのです。
しかし、新設の校舎に二学期と三学期しか通学できなかった六年生たちでしたが、その多くが卒業作文に、八月の炎天下、机椅子運びに汗した体験を記し、自分たちは母校の開校に参画、寄与した喜びを誇らかに述べていたのでした。私たち当時のPTA、親たちは、赤面する思いで妹尾校長先生の高貴なまでのお考えに脱帽したことでした。
確かに青少年問題の絶えない昨今ですが、求められているのは、おとなの真の賢(かしこ)さではないでしょうか。子供たちは、その純粋な情熱を存分に発揮できる場と時を求めているのです。人生の先輩としてのおとなの責任は、ますます重いと痛感することです。
