人のために祈ろう 

平成15年1月号掲載

謹賀新年
 平成十五年、立教百八十九年の新しい年を迎えるに当たり、二十九年前の昭和四十九年秋、教祖神ご立教以来百六十年の霊地大元から神道山へのご遷座を機に発表いたしました「まることの生活信条」の最終条「人のために祈ろう」を、改めて今年の修行目標として掲げさせていただきました。
 この修行目標をいただくに際して、再び三度、教祖神のご一生を「教祖伝」はもとより「教書」「御逸話集」にたずねて、教祖神がまごころを込めて人のために祈り尽くされた御方であることを再認識して、全身が熱くなる思いになりました。ご自分のための物はもとより、世に言う自分の時間もどれだけお持ちになっていたのかとさえ思いました。
 それはいうまでもなく、ご幼少時からの親思いのお心、ご両親に心配をかけない子供でありたい、さらには喜んでいただける人になりたいのお心に始まっています。このお心は、天照大御神に対する厚い信の心に連なり、人に、物に、誠を尽くす日々ともなってそのご一生に貫かれています。
 とりわけ、岡山藩主池田の殿様(とのさま)からいただかれた御羽織に関しての御逸話などは、その最たるものでありましょう。
 大切にして日頃は身につけず、お城へ上がる時だけ着用されていた御羽織ですが、ある日お殿様に招かれての帰途、大雨のために穴の開いた土橋の修理につとめられて、大切な御羽織が泥だらけになったことがありました。驚かれる奥様に「お殿様からいただいた羽織も大切だが、人様のお御(み)足はもっと大切だから……」とおっしゃったと伝えられています。実に、黒住教精神ここにあり! の感を深くする尊いご逸事です。
 何にもまして胸うたれ、私たちがその“みせぶみ”に従うべきは、悩み病む人のために“祈り、説き、取り次ぐ”お心の強さです。御自らが九死に一生を得た尊いご体験の上に、深い情愛、憐憫(れんびん)の情、加えて大御神様直授の「御活物(おんいきもの)」にみちみちたお取り次ぎに、人々はみ光につつまれたような、まるで母親に抱かれた幼子(おさなご)のような真(ま)素直(すなお)で平穏(へいおん)な時を迎えていたのです。
 ある日、お出かけになってお帰りの道中のこと、人々の立ち話の「一人ぼっちで貧乏でカクの病(胃ガン)に苦しむ周造……」を耳にされた教祖神は、直ちに道をはずれて周造さんを探し訪ねて、祈り、説き、取り次がれています。しかも、にわかに降ってきた雨に御自らが濡(ぬ)れるのもいとわず、その廃屋(はいおく)のような家の雨もりの屋根なおしまでされているのです。周造というその重病人の感動はひとかたならず、その感激の中に奇跡は現れ、ほどなく床を離れる日を迎えています。


 教えの五事の「誠を取り外すな」「我を離れよ」は、とかく“自分中心”でわがままになりがちな人間、その“我”を離れ、他に誠、まごころを尽くす大事を説かれているところであります。そこにこそ人としての道を全うすることができるのです。いわば、生物、動物としてのヒトは、人に尽くし、役立って初めて人となることができるといえましょう。それは「この道は、人となる道すなわち神となるの道」といわれるところで、教祖神が身をもって教え示された「天照大御神の大道」に生きるということです。
 このことは、また「誠はまること」と教えられるところで、“まること”の“る”が約(つづ)まって“まこと”となったといわれるように、誠は大きく循環して自らの心の養いになるだけに、まさに人は人に役立って人となるのです。
 御教語の「我助からんとおもえば人を助けねば助からぬものなり」は、実に「人のために祈ろう」の原典ともいえるもので、それはまた“まること”の思想が端的に表われている尊い御教えです。人のために祈ることが、真に自分のための祈りになるということです。
 まずは、人様のために祈り尽くすことを第一義とした生活を大切にしたいものです。


 私は、先年来の各教会所における教祖神百五十年大祭を通して、人としての在りよう、とりわけ今日の時代に欠けがちな親と子、先祖と子孫、先生と生徒といった人間関係のタテ軸の大切を訴えています。それはひとことで言えば、今日「仰ぐ心」「敬う心」を失った人があまりに多いと思うからです。人に対する真のまごころ、愛、慈悲の心は、このタテ軸を元にして初めて生まれ出るものと信じます。
 今までも様々な機会を通じて紹介してきましたが、実は真の宗教は宗派のいかんを問わず、人間の自己中心的な生き方を排し、信仰に基づく誠、愛、慈悲心の大切を一様に説いています。
 天台宗の伝教大師最澄上人は「悪事を己れにむかえ、好事を他に与え、己れを忘れて他を利するは、慈悲の極みなり」と説かれ、この一節を略した「忘己利他」は「一隅を照らす」とともに天台宗の代表的な教えとなっています。
 日蓮宗も「ただ偏(ひとえ)に、国のため、法のため、人のためにして、身のためにこれを申さず」といって、今日いうところの“自己中”をきびしく戒(いまし)めています。
 ローマ法王ヨハネ・パウロ二世は、お若い頃の論文「行為的人格」の中で「人間は、おしみなく他者に与え尽くすことによってもっとも完全な自己となり、人格としてのあり方を実現する」と言い切っています。
 私たちが「人のために祈ろう」と訴えるところは、宗派教団を超えた真理なのです。