孝明天皇と黒住教

平成14年12月号掲載

教主様には、去る十一月十二日に東京で開かれた、経済同友会の「師を囲む会」において講演をつとめられました。以下は、その要旨と、わが国の伝統精神の高揚につとめることを目的とした「日本会議」の設立五周年誌に寄せられた祝辞です。(編集部)

孝明天皇と黒住教
教主 黒住宗晴
==黒住教について==

 黒住教教祖黒住宗忠(一七八〇~一八五〇)は、代々、今村宮という備前岡山藩の守護神社の神職をつとめる家の三男として生まれた。幼い頃から評判の孝行息子で、青年期、孝行とは親に喜んでもらえる人生を送ることにつきるとの結論に至った。そのためには“生きながら神”と称えられ崇(あが)められる人物になることこそ孝の極みと心を定め、心をきたえ養うことに専念した。
 宗忠三十三歳の秋、流行病で両親が相次いで昇天し、その悲しみは尋常でなく、程なく宗忠自身が肺を病んで床に就く身となった。病は進み、文化十一年(一八一四)の正月過ぎには、まさに命旦夕(めいたんせき)に迫るところとなった。最期の別れにと、幼少時より両親に連れられて毎朝拝んでいた朝日を拝したとき、心機は大きく転回した。朝日に両親の心を拝した宗忠は強い自責の念に沈んだが、それは間もなく悔悟と謝罪の思いに変わりゆき、さらに新たな一歩を踏み出す心に転じていった。
 両親の死という悲しみで心を病んだ身なれば、心を生かせば立ち戻れる、それはまた両親へのせめてもの償いでもあると思いを新たにしたのであった。それより朝となく昼となく日拝し、床にあっては、後に三十一文字で表した

 有り難きことのみ思え人はただきょうのとうとき今の心の

の時を重ねる修行に勤(いそ)しんだ。
 病は薄紙をはぐがごとくに快方に向かい、三カ月後には本復する神徳に浴した。神前奉仕に復帰するとともに、毎朝の日拝は最も大切な祈りのときとなった。
 その年文化十一年十一月十一日、この日は冬至の日であり、安永九年(一七八〇)十一月二十六日(子(ね)の年、子の月、子の日)の冬至の日生まれの宗忠にとって、三十四回目の誕生日であった。
 いつものように、東天に向かい「大祓詞」を唱えつつ日の出を待っていた宗忠が朝日を迎えた瞬間、御光の勇躍して己れに迫り来るのを覚え、思わずその日輪を呑(の)みこんで下腹におさめた。神人一体の神秘の時であった。──「御陽気をいただきて下腹に納め、天地とともに気を養え」の教えはこの時の体験が生んだもの──
 この体験を経て宗忠は、天照大御神は朝日に表れる天地生々の霊機であり、その分霊が鎮まる──日止(とど)まるのが人との確信を得た。後に「天命直授(てんめいじきじゅ)」と称され、黒住教立教のときとされる宗忠の神人一体の宗教体験であった。

 ──その神詠のいくつか──

 天照らす神のみ徳は天つちにみちてかけなき恵みなるかな

 天つちの心のありか尋ぬればおのが心のうちにぞ有りける

 天照らす神のみ心人ごころひとつになれば生き通しなり

  わが国の信心のこころをよめる

 有り難きまた面白き嬉しきとみきをそのうぞ誠なりけれ

 有るものは皆吹きはらえ大空のなきこそおのがすみかなりけれ

 身も我も心もすてて天つちのたったひとつの誠ばかりに

 天つちにまかせまつりしわが身にはあたえ給いしことの嬉しさ

 日々に朝日に向かい心から限りなき身と思う嬉しさ

==孝明天皇の黒住教信仰==

 宗忠在世中数千人の信者(道づれと称した)が集まる教団となっていたが、宗忠昇天後、七人の弟子たちが京都をはじめ中四国に布教を展開し、近代における新宗教の走りの教団となっていった。
 特に京都布教を担当した赤木忠春という門弟の布教力は大きく、“御道という名のもとに”一般人から関白九條尚忠(くじょうひさただ)公、江戸時代最後の関白となった二條斉敬(にじょうなりゆき)公をはじめ三條實美(さんじょうさねとみ)公ら十指に余る殿上人が入信し、ついには孝明天皇への御前講演の栄に浴した。
 その時賜った御製に

 玉鉾(たまぼこ)の道の御(み)国(くに)にあらはれて日月(ひつき)とならぶ宗忠の神

とある。
 孝明天皇からは宗忠大明神の神号を授けられ、吉田神社から提供された吉田山南端の神楽岡の地に宗忠神社が鎮座したのは、文久二年(一八六二)、維新五年前の春であった。
 宗忠神社は、孝明天皇の仰せ出された唯一の勅願所となり、維新前夜の混迷の世、蛤御(はまぐりご)門(もん)の変、さらには公武合体に関しても、これを強くすすめた二條公の信仰から、陰ながらお役に立つ働きがあったと思われる。
 孝明天皇は、皇祖神である天照大御神に宇宙の太霊ともいうべき深奥(しんおう)なる神を感得され、宗忠神詠の「天照らす神のみ心人ごころひとつになれば生き通しなり」を御自ら目指されたのではなかったかと拝察する。
 慶応二年(一八六六)十二月二十五日崩御。翌年、維新の大業は成ったのである。


祝辞

 先ずもって、「日本会議」設立五周年をお祝い申し上げますとともに、今日まで尽力なされました諸氏の御志の高さに心からの敬意を表します。
 さて、世の顰蹙(ひんしゅく)を買うような若い人たちの言動を見聞きするにつけても、戦後は終わっていないとの感を改めて深くしますが、併せて私たち年輩者の責任を、反省を込めて強く感じることです。
 “真のドイツ人が真の世界人”とか言ったニーチェではありませんが、真の日本人が真の国際人であること、すなわちベリーナショナルにして初めてインターナショナルたりうることを、人生の先輩である私たちが若い世代に教えてゆかねばならないことも痛感しています。
 そのために為(な)すべきことは、まさに日本会議が展開されてきた諸活動に明らかであります。私ども岡山という一地方都市にあって、微力ではありますが、様々な伝統芸術、特に「道」と名のつく茶道華道をはじめ各種武道に接し、あるいは汗する機会を青少年に与えることが年輩者の責務と思い努めていることです。
 就中(なかんずく)、国旗日の丸に対する人々の思いなどは、このような伝統的な道に関わると立ち所に強くなることを目の当たりにして胸うたれると同時に、今までの至らざりしを恥じることでもあります。
 日の丸といえば、明治様がお詠みあそばされた

 くもりなき朝日のはたにあまてらす神のみいつをあふげ国民(くにたみ)

こそ、今日の私たちが取り戻したい心根です。
 国民の家ごとに、日の丸の旗がさわやかにはためく日を、ひとつの夢として努めてまいりたく存じております。