新聞で学ぶ「大御心」

平成14年9月号掲載

去る八月五日の朝日新聞は、一面トップに「GHQ会見通訳が手記」の見出しでもって、昭和天皇陛下とマッカーサー元帥会見の全十一回のうち、後半の八~十一回の通訳をした故松井明氏が克明に書き残した手記を公表しました。この特集記事の冒頭には、まず一回の会談について次のように記していました。
 昭和天皇は敗戦直後の1945年9月27日、米大使館に連合国最高司令官マッカーサー元帥を訪ね、約37分間会談した。ただ一人通訳として立ち会った外務省参事官の奥村勝蔵氏はただちに記録を作った。少なくとも1部は外務省、1部は宮内省(当時)に保管されたが、いまだに公開されていない。この会見についてマッカーサー元帥は、64年公刊の回想記で、天皇が戦争の全責任を負うと明言し、「私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねる」旨を語った、と記している。だが、作家の児島襄氏が75年11月号の「文芸春秋」誌に公表した奥村氏の要領筆記には、直接天皇が全責任を負うと発言した言葉がなかったため、研究者の間で議論を呼んだ。松井手記はこの奥村メモを全文転記し、「全責任発言」の経緯について新たな指摘をしている。松井手記は、以下のように述べる。「天皇が一切の戦争責任を一身に負われる」旨の発言は通訳の奥村氏によれば、「余りの重大さを顧慮し記録から削除した」。……中略……松井氏が、この話を直接奥村氏から聞いたかどうかは不明で、改めて議論が再熱しそうだ。
 この日、私は、古いスクラップブックを探して昭和六十二年(一九八七)十月三日の中日新聞を見つけて再読しました。それは、一面トップに大きく「陛下 命投げ出すご覚悟」と記し、「バイニング夫人(皇太子殿下家庭教師)日記に生々しく」と続くもので、中日新聞のアメリカ総局長が、皇太子殿下(現天皇陛下)ご夫妻がこの日十月三日に訪米に出発されるに際し、バイニング夫人の特別の了解を得て報道する許可を得た記事でした。
 この日記には、バイニング夫人滞日四年間余りのことが詳細に記されているとのことですが、マッカーサー元帥の信頼が厚かった夫人だけに元帥から直接聞かされた話が次々と書き残されているようです。その一九四七年(昭和二十二年)十二月七日の項に、昭和天皇とマッカーサー元帥との第一回会談の様子が次のように記述されています。
  元帥は陛下に対して最初、厳しい態度で臨み、「戦争責任をおとりになるか」と質問した。これに対して陛下は「その質問に答える前に、私の方から話をしたい」と切り出され、「私をどのようにしようともかまわない。私はそれを受け入れる。絞首刑にされてもかまわない。(YOU MAY HANG ME.)……」
 十五年前、この中日新聞を目にした時、やはり天皇陛下はマッカーサー元帥の前でご一身を捨てられていた……の感を深くしていましたが、このバイニング夫人の日記はこのことを傍証するに足る貴重な資料だと改めて思います。


 この七月、天皇、皇后両陛下は初めて中・東欧四カ国をご訪問になりました。日本の天皇、皇后両陛下を初めて迎えるこれらの国々は心温まる歓迎をし、私たちの心もなごませていただきましたが、とりわけポーランドの人たちにとっては待ちに待ったご訪問だったとのことです。
 私もこの度初めて知ったことですが、わが国はポーランドと格別のことがあったようです。毎日新聞は七月十日付で、クワシニエフスキ大統領が、日本とポーランドの交流の歴史に触れ、ロシア革命当時、シベリアに残された孤児の救出について改めて感謝した。
と伝え、続いて十三日付の同紙は次のように報じていました。
  第一次世界大戦(1914~18年)やロシア革命(17年)の時に、ロシア支配に抵抗してポーランドからシベリアに追放され、日本によって救出されたポーランド人の元孤児3人が12日、ワルシャワの日本大使公邸であったレセプションで天皇、皇后両陛下と初めて面会した。元孤児の一人は面会後の会見で「私が今あるのは日本の援助のおかげ。両陛下に会えて感激している」と心情を話した。ポーランドでは当時、ロシア支配に抵抗した一万人以上がシベリアに追放されて殺害されるなどし、約2000人の孤児が飢えと寒さに苦しんだ。ポーランドの団体によって孤児を日本に送る活動が進められ、日本赤十字社が中心になって1920(大正9)年から3年間で765人が日本に渡った。大半がボロをまとって素足だったという。孤児らは一時、東京や大阪で生活し、健康を取り戻して母国に帰った。
 調べてみますと、この孤児たちの心身の深い傷を癒(い)やすために、当時の日本はまさに朝野(ちょうや)を挙げてつとめていました。中でも、大正十年四月六日、孤児の収容された所にお見舞いに出向かれた貞明皇后(大正天皇皇后)が、うちひしがれた三歳の女の子をお傍(かたわ)らに寄せて抱きしめられた時、孤児たちは一斉に号泣し、その感激の涙が立ち戻る力となったと伝えられています。



 二十一年前の昭和五十六年二月二十三日、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世はローマ法王として初めて来日しました。この時、法王は慣例を破って皇居に天皇陛下を訪ねられました。と言いますのが、法王が外国を訪問してその国の元首や首相に会う時は、この方々が法王を訪ねて会いに来るのが慣例となっているとのことで、法王の皇居訪問は前例のないことでその世界で物議をかもしたようでした。その時、法王は、御身を捨ててマッカーサー元帥の前に立たれた天皇を称えて自らの陛下訪問の意義を説いたと後に聞かされました。私は、日本人宗教者の一人として法王来日の翌日二十四日にお目にかかった時、まず、皇居に天皇陛下を訪ねられることに敬意を表したことでした。
 しかし、今思い返してみますのに、ポーランド出身のヨハネ・パウロ二世は、一人のポーランド人カロル・ヴォイティワ(本名)として、かつてのことについて、天皇陛下に御礼を述べるための皇居訪問でもあったのではないかと、深い感慨にひたっていることです。