山野定泰高弟に想うこと

平成14年8月号掲載

先日、岡山県北の久世町に立つ山野(やまの)定泰(さだやす)高弟の立像にお参りいたしました。久しぶりの参拝でしたが、立像の足もとに彫り込まれた碑文の中の一条「……日本神道に就いてと題する御前講演を命ぜられ天顔咫尺((注1)てんがんしせき)の光栄に浴す……」は、いつも口をついて出るほど私の中に強くあるものですから懐かしさもいっぱいの参詣でした。
 山野定泰高弟(一八二四~一八九五)は社家に生まれ伊勢神官にも奉職した方で、いわば神職の大先輩としての教祖神に入門を請い、ご昇天直前の嘉永三年(一八五〇)正月に神文を捧げられています。主として時尾宗道高弟に教えを受けたといわれていますが、二代宗信様を支え、特に三代宗篤様にとっては良き後見人であったようです。事実、三代様と出雲大社の千(せん)家(げ)家の真(ま)寿(す)様との結婚の仲人役を果たしたのもこの方でありました。さらには、明治三年、三代様が結婚間もない新妻を大元に置いたまま上京して、明治政府と交渉に交渉を重ねて宗教教団としての公認を得、続いて国家神道の枠(わく)を離れての布教の自由を勝ち得たいわゆる別派独立に至るまでの歳月、そのお側にあって支え続けられたのも山野高弟でありました。
 三代様にこの活動を展開させた原動力は、もちろん事が本教存亡にかかわる大問題であったこともありますが、同時に、人の心に直接つながる信仰の問題を政府が厳しく管理統制することは、国の将来を誤らす元になるという憂国の思いにあったと拝察することです。それは、その頃三代様が詠まれた御歌にも伺うことができます。

 姿なき身とはなるとも天地(あめつち)の誠の道のさきがけやせん


 またこのように、若き三代様が時の政府を相手に大立ち回りともいえる運動を繰り広げることができたのも、明治天皇の御父君孝明天皇のご信仰を辱(かたじけ)なくした本教であったからでありましょう。
 事実、明治十一年には、当時の青山御所(東京)において孝明天皇のお后(きさき)英照皇太后(旧姓九條夙子(くじょうあさこ)姫)のお招きで吉備楽の一行が御前演奏の栄に浴していますが、そこには明治の皇后陛下が同席され、さらには、若き頃神文を捧呈して入信し、かつては“七卿落(しちきょうおち)”で長州(山口県)に流されながらも後に明治の元勲(げんくん)と称(たた)えられるほどの活躍をした三條實美(さんじょうさねとみ)公も陪(ばい)席しています。
 そういう過程を経ての山野定泰高弟の御前講演でした。明治時代も十六年、日本神道についての御前講演なら、錚々(そうそう)たる国学者、大神社の宮司方もいらっしゃったと思いますが、なぜ岡山の黒住教にその命(めい)が下(くだ)ったのかと、久世町の山野先生の立像の前で思いはめぐりました。
 私の心には、明治天皇の御父君孝明様を思われるご孝心がひしひしと感じられました。
 桓武(かんむ)天皇以来千年の京の都にあって最後の天皇となられた孝明様、しかも御歳三十六の若さで明治維新前夜の混迷の中に崩御された方を、新しい都、東京にあってお子様の立場でおもんぱかられる明治天皇の御心はいかなるものであったろうと拝察しました。しかも英(えい)邁(まい)な天皇としてその道を突き進まれれば進むほど、御父君へ募(つの)るものは強かったのではないでしょうか。その孝明天皇が信じ仰(あお)がれた黒住なる神道はどういう教えなのか、この御心が山野高弟の御前講演になったと思います。とはいえ、お立場上、一宗教教団のことにかかわるわけにはいかない御身、幸い“神道の教えの大元”と称されている黒住教ゆえ、「日本神道に就いて」という演題も決められたのではないかと推察いたしました。


 それにしましても、当時の教団本部の驚きと感激は今日の私たちが想像もできない大きなものであったでありましょう。その時、信仰といい、人物といい、この人を措(お)いて他になしと白羽の矢が立ったのが山野定泰高弟であったのです。それは、かつて孝明天皇の御前でご講演申し上げた赤木忠春高弟に勝るとも劣らぬ、有り難くも尊い時であったろうと思います。
 赤木高弟が何をお話し申し上げられたのかは、御前講演を終えたとき孝明天皇から賜(たま)わったと伝えられる御製((注2)ぎょせい)

 玉鉾(たまぼこ)の道の御国(みくに)にあらはれて日月(ひつき)とならぶ宗忠の神

に伺うことができると思います。「日月とならぶ」とまで仰(おお)せられて、教祖神を称えて下さっているのです。徳の高いことを古来「徳日月の如し」と申しますが、この「日月とならぶ」は、教祖神が御日拝によって天命を直授(じきじゅ)された本教立教のときを赤木高弟が説かれた証(あかし)だと思います。
 この天命直授の尊き神秘のご体験によって、宗忠様は神と立たれるとともに、お日の出に現れる万物を生々化育する大御神という天照大御神の真実体を明らかにされたのです。このところを、情熱と信念をもって述べた赤木高弟の誠ごころに胸うたれた孝明天皇の御心が、「日月と並ぶ」に伺われるではありませんか。
 山野高弟の詠まれた道歌に
 生きているその生きの根の日と月のめぐみを知るは日と共の人
というのがありますが、私はかねて高弟も、赤木高弟と同じように教祖神の天命直授を中心に明治天皇に御前講演されたにちがいないと思っていました。
 そういう折から、先年、私は明治天皇の膨大(ぼうだい)な数の御製の中で次のような御歌に出合い、心底感激いたしました。
 それは

 くもりなき朝日のはたにあまてらす神のみいつをあふげ国民(くにたみ)

の御歌です。
 国旗の日の丸を“朝日の旗”と仰(おお)せになり、そこに天照大御神の御神威(みいつ)を仰(あお)げとは、実に明治天皇も天照大御神の御心を昇るお日の出に仰いでいらっしゃったことを知るとともに、そのご信仰の一端に、山野定泰高弟の御前講演があったにちがいないとの思いで胸が熱くなったのでした。

 注1 天顔咫尺(てんがんしせき)天皇陛下のお側近くに進むこと
 注2 御製(ぎょせい)天皇陛下の作られた詩歌