神楽岡・宗忠神社ご鎮座百四十年記念祝祭によせて(上)

平成14年5月号掲載

百五十二年前の嘉永三年(一八五〇)二月二十五日(旧暦)、教祖宗忠神がご昇天になるや、その涙もかわかぬ間に七人の高弟方は全国各地への布教の旅に出られました。
 中でも、時の王城の地京都を担当した赤木忠春高弟の布教活動はめざましく、京の街の人々はもとより公卿( 注1 くぎょう)方の中にも信仰する人が増えてゆき、関白( 注2 かんぱく)九條尚忠(くじょうひさただ)公、江戸時代最後の関白となった二條斎敬(にじょうなりゆき)公までもが入信されました。そして、ついには時の帝(みかど)、孝明天皇から「宗忠大明神」の神号を賜り、文久二年(一八六二)二月、洛東吉田山の神楽岡に宗忠神社が建立鎮座され、続いて孝明天皇が仰せ出された唯一の( 注3)勅願所(ちょくがんしょ)にまでなったことは、本教の歴史にひときわ大きく輝く一ページです。
 宗忠神社がご鎮座なって間もない元治元年(一八六四)、ひとつ間違えば“(注4)応仁の乱”の再現ともなって京都は焼け野原になったであろうといわれる“禁門の変(蛤御門の変)”が勃発(ぼっぱつ)しました。これは、今も京都御所西外郭に三つある門の中央の蛤御門と呼ばれている辺りで、尊皇倒幕の急先鋒であった長州藩(山口県)と街の中を警備する諸藩の兵との戦いでした。戦いは熾烈(しれつ)を極め、孝明天皇の御身を危うんだ側近は、比叡山へのご動座をおすすめしたようですが、「これほどの大事を神楽岡宗忠神社はいかが思わるるぞ」とのご下問があり、二條関白の家臣櫛田(く左近将監(くしださこんしょうかん)が早馬(はやうま)で神楽岡へかけつけ、その旨(むね)を告げたところ、御神前にあった赤木高弟は凜(りん)とした声で「ご動座ご無用!」と奉答したのでした。
 陛下(へいか)は動かれず、程なく戦いは潮が引くように止(や)まったとのことです。当時、日本の周辺には、西洋の列強がいずれが先に乗り込もうかと虎視(こし)眈々(たんたん)と“日本植民地化”をねらっていた時代です。
 国の命運を決するこの一瞬に、ご鎮座間もない宗忠大明神の御神威が現れたことは、これまた本教教団史に光り輝くところです。


 後に維新の元勲と称えられた三條實美(さんじょうさねとみ)公は、この蛤御門の変の前々年の文久二年三月、ご鎮座なったばかりの宗忠神社に神文を捧呈して入信しています。しかし、尊皇の熱い心止(や)み難く、ついては倒幕計画の疑いで六人の公卿たちと長州に追われました。これがいわゆる“七卿落(しちきょうおち)”ですが、この時、一行の監視警護に当たったのが岡山藩士でありました。数年前、神道山に参られた( 注5)千家十職(せんけじゅっしょく)塗師(ぬりし)の当代中村宗哲(そうてつ)女史は、「あの頃、お隣りの官休庵(茶道家元)さんのお屋敷は、岡山の池田藩の侍という“進駐軍”の住まいとなってました」と話しておられました。
 教祖神まで黒住家の代々は岡山藩の守護神社今村宮の神職であったというお立場の上に、教祖として立たれてからは家老をはじめ多くの藩士に信仰する人もあり、しかも教祖神は藩主のもとで道を講じ、時には若い藩士への教育もつとめられるなど、岡山藩とは当然のことながら良好な関係にありました。しかし、齟齬(そご)を来し出したのは、“宗忠大明神”の神号を授かり宗忠神社建立運動が始まった頃からだと思われます。江戸時代、わが国には徳高く人々から篤く敬われた誠の人は、時の天皇様から神号を授けられ神と斎(いつ)き祭ることが許されていました。神号には“大明神、明神、霊社、霊神”の四段階があって、教祖神はその最高位を授けられていました。岡山藩の藩祖で今に名君と名高い池田光政公にして贈られた神号は霊神であったのですから、藩の守護神社の禰宜(ねぎ)であった教祖神に大明神号が贈られ、しかも王城の地京都に神社が建立されたということは、岡山藩の幹部方にはおもしろい話ではなかったようです。そこへもってきて、宗忠神社が倒幕の輩(やから)のいわば拠点とみなされていたのです。
 元治元年秋、郷里津山に帰った赤木高弟を待っていたのは、本部への出入りを禁ずるという通達でした。それは十六歳になったばかりの三代宗篤、後(のち)の管長名によるものでした。世に泣いて馬謖(ばしょく)を切ると申しますが、当時、岡山藩のお膝元で宗教教団としての形をようやく整えようとしていた本教本部幹部の方々の、組織をとるか、個人をとるかの苦悩の日々がひしひしと伝わって来るような決断でした。さらに、赤木先生の心中をおもんぱかるとき、寝首を掻(か)かれたような驚きと無念の思いであられたろうと推察します。


 これまでも、ほぼ十年ごとに行われてきた神楽岡・宗忠神社ご鎮座の記念祝祭は、もちろん教祖神である“宗忠大明神”の御徳を改めて称え、そのご神徳に与(あず)かる絶好の機会ですが、同時に赤木高弟を顕彰する御祭りでもありました。しかし、この記念祝祭の度ごとに“負(ふ)の遺産”ともいうべき形で教団内に蘇(よみがえ)ってきていたのが、最大の功労者赤木高弟を罷免(ひめん)更迭(こうてつ)した教団本部への複雑な思いでした。前回のご鎮座百三十年記念祝祭を前に、本教教徒である真弓常忠皇学館大学教授(現在は京都八坂神社宮司)が精力的に関係古文書などを調査研究して上梓(じょうし)して下さったその名も「孝明天皇と宗忠神社」によって、その間(かん)の事情が明らかになり、おかげで晴れてその名にふさわしい“記念祝祭”を斎行できたのが、前回の百三十年の御祭りでした。
 なお、明治十八年、教祖神ご降誕、ご立教の地である霊地大元に宗忠神社がご鎮座なった竣工祝祭で、三代宗篤管長は、すでに昇天されていた赤木忠春高弟でしたが、「大教正」の称号を贈ってそのお徳と偉業を称えられました。そこには、赤木高弟の心中を察しても余りある万感の思いが込められていたと拝察することです。
 また、長州に追われた三條實美公は、前述のごとく後に維新の元勲と称えられるほど( 注6)太政大臣(だじょうだいじん)にまでなって新しい国づくりに尽力し、その昇天に際してはわが国初の国葬の礼をもって送られています。(以下次号)



 注1 公卿 「くぎょう」と読み俗に「くげ」ともいう。朝廷に仕える高官のこと。
 注2 関白 正式には「かんばく」という。天皇陛下を補佐して天下の政を(  まつりごと)執り行った最高の公職。
 注3 勅願所 天皇陛下が国、国民の平安を祈る寺社。
 注4 応仁の乱 一四六七(応仁元年)から一四七七年に亘って京都を中心に続いた大乱。京都は焼土と化し、以後、戦国時代になる。
 注5 千家十職 茶道家元千家の指定によって茶道具を造った十家。
 注6 太政大臣 明治維新政府の最高長官。