御神幸で掛けられたひと声

平成14年4月号掲載

昭和二十七年四月、久しく跡絶えていた「宗忠神社御神幸(ごしんこう)」がお道づれはもとより多くの岡山県民市民の願いと協力のもとに復活しました。それより半世紀が過ぎ、今年四月七日に斎行される御神幸は復活五十一回目となります。


 御神幸の由来を尋ねますと、それは今年ご鎮座百四十年を迎えて来る六月二日にその記念祝祭が執行される京都神楽岡・宗忠神社に至ります。江戸時代の末期、孝明天皇から大明神号を授かり宗忠大明神として時の王城の地京都にご鎮座なった宗忠神社。ここに続いて、明治の先輩方は、教祖宗忠神ご降誕の地霊地大元にも宗忠神社を建立しようと立ち上がり、前後六年の歳月を経て明治十八年四月に竣工されました。
 黒住家の代々が岡山藩の守護神社であった今村宮の神主として仕えていたこともあって、教祖神もお若い頃からこの神社の神職として奉仕されていました。そういうことから、かつてその御神前に仕えられた今村宮の御斎神に、今は天皇陛下から大明神号を授かり、宗忠神社の御斎神としてまつられたわが教祖神と神様同士のお目通りの場をと計画されたのが御神幸でありました。大元・宗忠神社ご鎮座の翌年の明治十九年三月にその第一回が斎行されていますが、このことは、明治の先輩方はあの壮大な宗忠神社社殿の建築を進める一方で、あの壮麗な御神幸の御鳳輦(ごほうれん)をはじめ御道具の数々を同時進行で製作されていたわけで、改めて先輩方の教祖神に対するお心の深さと気宇の大きさに頭が下がります。霊地大元から西の今村宮への五百・余の御神幸ではあまりに短すぎる、岡山市中にもぜひ、との要望を受けて、明治二十四年から後楽園を御旅所とした現在の御神幸となったのでした。
 しかも、そもそも黒住家のはるかなる先祖が大元の地に移り住んだのは、神主をつとめていた「三(注1)社宮」が、岡山城築城に際して“榎(えのき)の馬場”と呼ばれていた岡山城の真南の地から今村の八幡宮と併せまつられること(天正八年・・一五八〇)に伴ってのことであったことから、岡山城の真北の後楽園が御旅所になったのもまさにご神慮と有り難くも尊く思うことです。
 宗忠の神様の御分霊を奉斎した御鳳輦を中心にした一千名の奉仕者による御神幸は、霊地大元を出発して岡山駅前から後楽園に向かい、御旅所での祭儀を終えて岡山市中の繁華街を経て大元にお帰りになります。このお通り節の大半は昔通りですが、昨年の復活五十回を機に、御神幸は岡山の春のまつりである“岡山さくらカーニバル”の中心的な行事となり、往路のお通り筋も岡山駅から“桃太郎大通り”と称される電車通りを真東に進むこととなりました。斎主の私と副斎主の副教主は親子で御馬車に乗せてもらっていますが、ここ数年は八代の宗芳も同乗して親子孫三代でつとめさせていただいています。


 昨年のことでした。岡山市役所から山陽新聞社本社前を進んでいる私たちの乗る馬車の左側から、「日本国を頼みます」というご婦人の押しころしたしかし力強い声が耳に入ってきました。それは、胸に手を合わせて立つ中年のご婦人の声のようでした。私たちは一瞬身がかたくなるとともに、体の中を血がかけめぐる思いになりました。深く一礼してその方の前を通り過ぎたのですが、岡山駅前から右折して桃太郎大通りに入った時、パチパチと何度も拍手する音が聞えてくると思った途端、「日本民族大丈夫なり」という野太い声が飛び込んで来ました。そこには恰幅(かっぷく)のいい紳士がにこやかにこちらを見つめていらっしゃいました。またまた体が熱くなるのを覚えましたが、このお二人のひと声は今に耳の底に強く残っています。私たちにそのようなおおそれたことができるとは思いませんが、この時から、今日の世に生きる心ある人の真情に少しでも応えることのできる者であらねばという思いは一層強いものとなりました。
 はるかなるわが先祖先輩たちが歩み続けて来た“神ながらの道”神道。その教えの大元と称えられ、時の天皇陛下から大明神号を授かり勅(注2)願所ともなった京都神楽岡・宗忠神社にまつられる教祖宗忠神。この連綿と連なる長い道筋の歴史の中に今日生かしていただいている私たち親子三人に、ご自身の歩み来られた人生を重ね合わせてのそれぞれのお声ではなかったかと拝察しました。
 それにしましても、御神幸の御馬車の上で掛けられたこのお二方の声は、これからも私たちに重いものとなって生き続けることと思います。
 来る四月七日の今年の御神幸。新たな課題を背負っての奉仕となります。

 注1 三社宮 天照大御神、八幡大神宮、春日大明神をまつる神社。
 注2 勅願所(ちょくがんしょ) 天皇陛下のご命により国家安泰、人心安寧を祈願する社寺。