ご挨拶

平成14年3月号掲載

教主様は、世界連邦日本宗教委員会の代表委員のお役を担われているが、二月七日、第二十三回世界連邦平和促進全国宗教者大会が和歌山市において開催されるに当たり、挨拶文を寄せられた。
 また、岡山山陽高校教頭の滝本洋三氏の空手道道場開設二十周年記念誌に執筆された。この道場は氏が自宅を開放してつくったもので、日々、空手道を通じて青少年の健全育成に尽力しておられる。しかも岡山山陽高校は全国の高校空手道界で常にトップグループに位置しているが、それは滝本氏の指導に負うところが大きい。(編集部)


ご挨拶
 第二十三回を迎える世界連邦平和促進全国宗教者大会が開催されるに当たり、ひとことご挨拶申し上げます。
 二十一世紀こそ平和の世紀、心の時代と期待された世界の思いを、無残に打ち砕くような忌まわしい米同時多発テロ勃発の昨年九月十一日。この事件を受けたようなこの時節に、この大会が、しかも南方熊楠先生を生んだ和歌山で開かれる意味の深さに感じ入っています。
 あの事件が起こったとき、世の宗教者という宗教者は、驚きの中にもまず犠牲になった方々の霊安かれと祈られたと思いますが、同時に、これがイスラム社会対西洋社会の所謂(いわゆる)“文明の衝突”にならぬよう願うとともに、テロリストたちが“天国が行く”と信じてあのような事件を起こしたことに、宗教者としての責任の重きも改めて感じられたことと思います。
 去る十月三日、世連岡山宗教委員会の青年グループともいえるRNN(人道援助宗教NGOネットワーク)主催のもとに、「イスラム・・その平和の教え」と題するシンポジウムが、日本ムスリム協会の会長の方をお招きして岡山で開かれました。これは、日本人にとって、とりわけ岡山の県民にとって最も縁遠い存在の宗教であるイスラム教について、正しい理解を得ようとの意図のもとに持たれたものでした。ここでまず明らかにされたのは、イスラム教の唯一絶対なる神・アラーは、宇宙のすべてを創造し育てる慈愛深い神であるということでした。そういう神観においては、仏教も神道も変わらぬとの思いで拝聴したことでしたが、しかし、その神の分霊ともいうべき“いのち”が、人間はもとより動植物、否、無機物にも宿るという人間観、生命観は伺えませんでした。いわば仏教における悉有(しつう)仏性(ぶっしょう)説、神道における八百萬神観はありませんでした。
 ご高承のごとく、いわゆる一神教の強い布教力でもって、ケルトをはじめ多くのネイティブな宗教が隠されたのが西洋の歴史です。そのおかげで、今日の私たちがその恩恵に浴する科学技術の発達を見ましたが、法(のり)を超えたその発達は一方で即物的、唯物的思想を生み、さらには地球規模の環境問題も生み出しました。
 今こそ蘇(よみがえ)らねばならないのは、このはるかなる人類の先祖がつかみ、信じ、生きた“多神教”“汎神教”ともいうべき、あらゆる存在物に神仏を見いだし拝(おろが)む心でありましょう。
 南方熊楠先生は、古来の日本人のこうした信仰心の上に立って、科学的に“生命学”を打ち立てたまさに先覚者であります。それは決して人間中心主義でもなければ、すべてのものが人間に従属するとする考え、信仰でもありません。それらとは対極にあるものです。
 九月十一日の事件は、許されざるテロ行為でありましたが、犠牲者のためにも、この大難を活かす道は、南方熊楠先生の精神にこそあると愚考する時、この度の大会の意義の深さに改めて頭を垂れる思いになっております。

 誠の道を歩み続けられた二十年を称えて世に“名は体を表す”と申しますが、滝本洋三先生が空手道に賭(か)けられた誠ごころが花開き実って、ここに誠道館二十周年を迎えられましたこと、心よりお慶び申し上げますとともに改めて敬意を表するものです。私が斯(か)く申し上げますのも、教育問題が大きな社会的課題ともなっている今日、空手道を通じて青少年の身体を鍛え、もって心を養い育てる滝本先生の教職者としての日々は、教育本来のありようを教示していると思うゆえです。
 日本人は古来「誠」というひとことを大切にしまた好きな言葉として来ましたが、それは私どもの教えでも最も尊ばれているところです。
 「誠の本体は神のみ心なり」、「誠は人の本心なり」と言い、人の誠ごころを次の三首の短歌でもって教えています。

 有り難きまた面白き嬉しきとみき(三喜)をそのう(供・備)ぞ誠なりける

 誠には剣(つるぎ)も立たず矢も立たず火にさえ焼けず水に溺(おぼ)れず

 誠ほど世に有り難きものはなし誠ひとつで四(し)海(かい)兄(けい)弟(てい)

 しかも「誠はまることにて直(すぐ)に一心一体なり」と、いわば誠のダイナミクスを教えていますが、誠道館開設の頃の少年少女が今は親となってその子供さん方をつれて来られるとか、まさに滝本先生の誠が大きく循環している証(あかし)をここにも見ることです。
 今日私どもは“黒住教”と称していますが、江戸時代は“お道”と言われ、信者のことを“お道づれ”と今に申しています。わが国ではどのようなジャンルのものであれ、精神的なものが加味され“道”となって初めて“ほんもの”になるようです。野球も、武道と同じように“野球道”と言えるほど精神性のあるものにした人を私は知っています。
 「道は満るなり」とも教えられていますが、満点、完全をめざして汗する時々刻々の過程にこそ道はあるわけで、それはまさに字の通り“首を賭けて走る”ところに生まれる世界です。
 改めて、誠道館、誠の道を率先垂範してこられた滝本洋三先生はじめ道場生各位のますますのご精励を祈ります。