元・根幹を大切に
平成14年1月号掲載
謹賀新年
何年か前、私の妹夫婦が勤め先の関係で滞在していたベルギーを訪ねたことがあります。ある日、妹の運転で私たち夫婦は首都ブリュッセルを発って北に向かいました。どこが国境かも分からないままに隣国オランダに入り、そろそろ帰路に就こうとユーターンしてブリュッセルに向かったのですが、二、三十分ほど走った時、道に迷っていることに気づきました。ハンドルを握って少々あわて気味の妹に、私が話したのは教祖神の次の御教えでした。
「人と申すもの、とかく少しのことに心かかり、そのところよりいつのまにか元の道を忘れ候(そうろう)こと、はなはだ恐ろしきことにござ候。申し上ぐるまでもござなく候えども、万事その元をお忘れなさるまじく候。元有りて枝葉にてござ候(御文一一八号)」
道はこの場合まさに道そのもので、“道に迷ったら元に戻ること。すると必ずここで間違ったという所に辿(たど)り着くから”と言い、来た道を帰って行きました。ほどなくその地点に帰って来て無事帰宅できましたが、その道中はまた“迷い”についての御教えを話しながらの車中となりました。
迷いこそ世に恐ろしきものはなし鬼と知りつつくわれぬるかな(御歌一六九号)
迷えば魔寄ると申して、人の心が迷う時は、その虚(きょ)へつけ込み、悪魔がより集まりて様々(さまざま)の因果(いんが)たたりをいたす。油断はならぬぞ。(三十カ条の三十番)
とご忠告のように、“迷いにとらわれること、これが危険。迷った時は元に戻ること。スポーツで言えばスランプ(不振とか不調)に陥(おちい)った時は、その元、土台である基本の技のくり返しに励むこと。これがスランプを脱出する近道だし、またそこに思いがけない成長や、楽しささえあるものだ”と言って次の御神詠を話しました。
迷いほど世におもしろきことぞなし迷いなければ楽しみもなし(御歌一七〇号)
ベルギーからオランダのどちらかといえば東部に向かっていたにもかかわらず、帰路、道に迷って西の方に行ったのが幸いして、オランダ名物の風車も見ることができてよい観光ができたと妹に礼まで言ったことでした。
このことはしばらく忘れていましたが、昨年、思わぬことから思い出すこととなりました。
私は学生時代に、妹の主人もそうですが、ハンドボールというスポーツに熱中していました。これは読んで字のごとくハンドすなわち手でボールを扱い、バスケットボールのようにパスしたりドリブルして、サッカーのゴールを小型にしたようなものの中に投げ込んで得点とするものです。攻めては守り、また攻撃するというかなり激しいスポーツですが、好きな者には離れがたい魅力あるものです。私もいまだに学生時代の真似事をしてみたり、かつての仲間たちはもとより後輩の学生たちとの付き合いが続いていますが、昨年の春、後輩の二人が選ばれて京都の大学選抜のメンバーとして韓国に遠征しました。この国のハンドボールのレベルは国際的にもAクラスで、かつてオリンピックで金メダルを取ったり先年のシドニーオリンピックにも男女ともに出場して活躍するなど、今の日本のハンドボール界にとっては見上げるような存在になっています。ソウルでの大学チームとの数試合を経て、オリンピックチームの監督をつとめた人の指導も受けて帰って来た後輩はその様子を伝えてきました。「ナショナルチームの監督もした方は、“ハンドボールは手でするのでなく足でするスポーツだ”とおっしゃっていました。韓国の選手を見ていると納得しました」と書いていました。それはあまりに技術的なことに重心がかかりすぎて、最も基本的な体力の養成はもとより足腰の鍛練ができていないという忠告であったようです。これがバスケットボールとかバレーボールというのならともかく、ハンドボールについて“手でするものではない、足でするもの”との一言は実に的を射ていると思いました。と同時に、この忠告はひとりハンドボールのことではない、今日のわが国のあらゆる面についての警告のように思えました。
最も基本的なことを忘れてはいまいか。物事の大元をないがしろにしてはいまいか。あまりに小手先のことにとらわれてはいまいか。思いはハンドボールを離れてかけめぐりました。
人間の身体ひとつ見てみても、心臓からの鮮血は大動脈を経て毛細血管にまで行き、また大静脈を通って心臓に戻って来ることは小学生でも知っていることですが、わが体内のことながら、その真の働き、動きをどれだけ私たちは実感しているでしょうか。どれだけその意味をかみしめているでしょうか。
現実の生活で、あまりに毛細血管的なところに留まってしまって、大元たる“心臓”はもとより“大動脈”や“大静脈”の大事を忘れているのではないかと反省させられたことでした。
折から手にした本で見たのですが、そこには、かねてじっ懇にしていただいているカトリックの大司教ヨゼフ・ピタウ神父が、今日のわが国の状況について尋ねた人に答えたものが載(の)っていました。この方は上智大学の名学長としても鳴らした方で、今はローマ法王ヨハネ・パウロ二世の要望で、バチカンにあって法王の支え柱の一人となっていますが、いずれは日本に帰って骨は日本に埋めるとまで言われていた人です。
「ご先祖を大切にする。ありがたいという気持ちをもつ。日本はそうした精神の継続性を大切にしてきた。世界に心を開いて西欧の知識を採り入れた。この継続性と開かれた心を取りもどせば、日本には希望がある、と思うのです」と。
世に傍目八目(おかめはちもく)とか申しますが、これは、青い目の日本人ともいえるしかもカトリックの神父の立場にいる方が日本人の精神の大元にふれるところを指摘されているもので、素直(すなお)に傾聴(けいちょう)すべきだと思いました。
