宝物館別館の新設について
平成13年12月号掲載
現在、神道山では宝物館の別館の新築工事がとり進められています。申し上げるまでもなく、宝物館は、教祖神御真筆になる御教えの数々をはじめ、霊地大元の教祖記念館内の教祖神御居間を再現した部屋や、本教の歴史にかかわる品々を展示する建物です。それに加えて、古くから大元家に伝えられてきた絵画や工芸品、特に先代教主の五代様が備前焼作家の金重陶陽(かねしげとうよう)、藤原啓(けい)の両人間国宝とお親しかったため、両氏から献納された名品などを展示する陳列室も併設(へいせつ)されています。
昭和四十四年七月、今日の神道山への大教殿ご遷座が決まった時、教徒であり熱い信仰心に燃えた備前焼作家の故藤原建(けん)氏は、五代様に、新しい大教殿の屋根を備前焼でつくらせてほしいと申し出ました。氏は、父君静支(しずし)氏が穂浪(ほなみ)教会所の副所長であったこともありますが、祖母の世為(せい)さんが身をもって示した御道信心にその信仰心をめざめさせられていました。氏の青年時代のある日、年を重ねて老衰の身であった世為さんは、長男の静支氏をはじめ次男の啓氏ら子や孫の一族を呼び集めました。自身は御神前を背に寝床の上ながら紋付きに身を正して一人ひとりに声をかけ、最後に「これから宗忠様の御もとに参ります。みんな、有り難う……」と言って頭(こうべ)を垂(た)れそのまま昇天されました。誰よりも早くかけよって抱き上げたのが建氏でした。その安らかな顔もとは目に焼きついて離れないと、私は度々聞かせてもらったことでした。
氏は、戦後の間もない頃から、備前焼を今日に再生させた金重陶陽氏のもとで修業し、後に叔父啓氏の所で手伝いながら、昭和三十一年、独立して自分の窯(かま)を持ちました。
大本教の熱心な信者であった陶陽氏は、建氏をわが子のように育てる一方、建氏の御道信仰を称(たた)えていました。しかも、かつて私に「もう五年もすれば建ちゃんは私を追い抜く」とその晩年に言われたひとことが忘れられませんが、それほど備前焼作家としてその将来を嘱望(しょくぼう)されていた建氏でした。
大教殿の屋根瓦制作のために全長二十七メートルの大窯を築き、まさに身も心も焼きつくすように精魂(せいこん)を傾けた建氏の作品は、神道山の空高く、千木(ちぎ)鰹木(かつおぎ)棟瓦(むねがわら)として大教殿になくてはならぬものとなっています。
金重陶陽氏の親友であり志野焼(しのやき)を今日に蘇よみがえらせた人間国宝荒川豊蔵(とよぞう)氏は、初めて神道山大教殿にお参りされた時、大屋根を仰ぎ見て驚嘆し次のような一文を残しています。
「……最近に縁があって岡山の黒住教本部を参詣する機会に恵まれその本部の屋根に建君のおそらく最後の作品となったであろふと思はれる巨大な様々な同君作品でこの大きな立派な建造物が見事に飾られて居たのを見て驚き且つ感心もした。これは尋常な作家の容易に成し得ない巨大な備前の焼物である。……」
来年は、この藤原建氏逝(ゆ)きて二十五年、叔父の啓氏昇天数えて二十年を迎えます。しかも、父啓氏と親子で人間国宝という陶芸家として他に例を見ない栄誉に恵まれた建氏従弟(いとこ)の雄(ゆう)氏は、長の患いの後、去る十月二十九日に昇天されました。こうした本教教徒である藤原一家から献納されてきた作品を常設展示することによって、その愛教の誠を後世に伝えるべく宝物館別館建設を始めたわけです。
一方、代表的な伝統陶芸である備前焼と対極にあると言っても過言でないのが、戦後間もない昭和二十三年に結成された陶芸家集団の走泥社(そうでいしゃ)です。これは京都で、八木一夫、鈴木治(おさむ)、山田光氏といった当時の青年陶芸家たちが旧来の焼物の枠(わく)を超えたものをつくろうと決起したもので、そこでつくられる作品は前衛陶芸とかオブジェ焼きとも呼ばれて、従来の茶碗や壺に代表される“用の美”とはおよそ縁遠い作品たちでした。京都という街の懐(ふところ)の深さも手伝って、走泥社は全国的に、さらに世界的な存在に成長していきました。
昭和四十年の夏、私は黒住教青年連盟長として、折から展開していた「中・四国を対象にした重症心身障害児の施設をつくろう」といういわゆる“重障児運動”に没頭(ぼっとう)していました。この運動の一環として開催した美術工芸作品のチャリティーセールに、全面的に協力して下さったのが鈴木治氏でした。京都の高名な陶芸家方のお宅に私を案内して寄贈をお願いして下さいました。さらには、昭和五十五年の教祖神ご降誕二百年を記念して行われたニュージーランド・クライストチャーチ市への現代日本陶芸作品五十点贈呈に際しても率先(そっせん)して作品を寄贈して下さり、それは翌年のオーストラリア・シドニー市、またアメリカ・フロリダ州レークランド市への陶磁器贈呈と続きました。教主になっても氏が私を呼ぶ時はいつも“宗晴さん”でしたが、その人生の節目毎(ふしめごと)にさりげなく尋(たず)ねて来られるひとことは、まさにお道づれのそれと同じでした。代表作を次々とお届け下さったのも御神前にお供えされるお心そのものでしたし、また本教に置いておけば永遠に残るといった信頼のお心も伺えたことでした。
それだけに、今年四月の急逝(きゅうせい)は私にとりましても辛くまた寂しいことでした。ご遺志によるものでしょうか、葬儀で弔辞を読んだのは走泥社創立以来の仲間である山田光氏と私だけでした。備前焼の対極にありながら藤原建氏を高く評価していたのは鈴木氏でしたし、また藤原啓氏が人間国宝に指定されたのを記念して始まった「藤原啓記念賞」の第一号の受賞者となったのも氏でした。しかもその賞金のすべてを、かつて創設に協力した重障児施設“旭川児童院”に寄附されたのでした。
この度の宝物館別館には、藤原家記念室とともに鈴木治記念室も併設しようとするゆえんです。もって藤原家御三方並びに鈴木治氏の恩に報むくいたいと願っています。
とは申せ、今日の世の情勢また本教の状況を鑑(かんが)みれば、いくら意義深い施設と言いましてもぜい沢の謗(そし)りは免(まぬが)れえないものと思います。そこで、本教の教議会において、宝物館西隣の敷地の使用を満場一致で承認していただき、その建築費については私個人の責任で銀行融資を受けて果たさせていただくことも了承してもらいました。
来年四月の鈴木治氏の一周忌までには竣工できると思っています。
《編集部注》
教主様が文中でご紹介下さっています、故鈴木治氏が本教にご寄贈下さった作品四点(「泥象・光ル木」「風児」「牛・青白磁(小)」「牛・青白磁(大)」)が、愛媛県松山市のいよてつ百貨店で現在、開催されている「二〇〇一年 第二十一回 愛媛の陶芸展」(愛媛陶芸協会、愛媛新聞社主催・・会期十一月二十八日から十二月三日まで)に出展されています。お近くのお道づれには、同展の鑑賞をお勧めします。
