人生の先輩を称えて 

平成13年10月号掲載

過日、教主様には本教とご縁の深い総合社会福祉法人旭川荘の機関紙“旭川荘だより”の国際交流特集号に一文を寄せられた。今日、全国で三万余といわれるほど数の多い社会福祉法人の中で、名実ともにナンバーワンとなっている旭川荘である。それだけに国際的な活動も活発であるが、当初は本教がとり進めて来た“福祉外交”が主体であった。
 また河原中教会所(鳥取県)の開講百二十年誌に寄せられたものも併せて転載して、今月号の“道ごころ”にさせていただく。 (編集部)

旭川荘の“福祉外交”
 
 旭川荘の創立者故川崎祐宣(すけのぶ)先生は、まだ川崎病院の現役の院長であった昭和三十一年、岡山からの中国訪問団の副団長として中国を訪ねていらっしゃいます。これは、かつてのわが国文明の兄とも父ともいえる中国に対して、先の大戦で多大な損害を与えたことに一人の日本人として償(つぐない)をしなくてはならぬとの強い思いからなされたものでした。そのお志(こころざし)は、後に創立された川崎医大にも引き継がれていますが、特に旭川荘にあっては、現理事長の江草先生のご努力によって上海(しゃんはい)市と特別に深いご縁に結ばれたものになっています(編集部注)。
 昭和四十年、当時の旭川学園々長であった江草先生のご指導のもと、私どもは“中・四国を対象にした重症心身障害児施設をつくろう”とのキャンペーンを展開し、多くの県民国民の皆様の理解と協力を得て、昭和四十二年の春、旭川児童院は設立されました。この工事が進められている間、旭川荘から次々と先生方が重障児施設の先輩格のヨーロッパ各地に実地研修に向かわれました。いずれの所でも行き届いた指導研修を受け、感激のうちに辞する時、いかに御礼をしたらよいかと問う先生方に、彼らの口から異口同音(いくどうおん)に出たひとことがありました。それは「もし自分たちのお示ししたことがよいと思ったのなら、後に続く方に同じようにしてさしあげて下さい」でした。実は、私たちが“福祉外交”と呼ぶまでになった旭川荘における国際交流は、こうした経緯(けいい)を経(へ)て始められたのでした。
 旭川児童院に迎えたその第一号は、当時まだ外国だった沖縄から招いた“島袋(しまぶくろ)”という知的障害の方のために献身する青年であったと記憶しています。爾来(じらい)、タイ国や韓国をはじめ東南アジアの国々、時には西アジア、中南米諸国にまで“福祉外交”の輪は広がって今日に至っています。ここにも、川崎先生のお志の生きていることを尊く思うものです。

(編集部注)
 旭川荘は、昭和五十四年ごろから主として東南アジアの国々の医療、福祉、行政の専門職の研修生を受け入れてきている。中国からの研修生は上海市を中心に受け入れ、帰国後、研修生は同市の福祉行政発展に貢献している。平成二年からは、障害者、ボランティア、一般市民、旭川荘の職員からなる「福祉の翼訪中団」が毎年、上海市を訪ね、障害者や医療、福祉関係者との交流を深めている。その間、江草安彦理事長は平成六年に上海市の最高名誉賞である「白玉蘭賞」を受賞、さらに平成九年には上海市から「栄誉市民」の称号を贈られている。また平成十年には「日中医療福祉研修センター」を同市に開設して、福祉交流の拠点としている。

 河原中教会所と私

 皆様方の黒住教河原中教会所が、明治十四年に開講されて百二十年を数え、中教会所に昇格して六十年になられるとのこと、改めて本教の長い歴史と先輩方がつちかってこられた伝統の尊さに感じ入ることです。
 なかんずく河原中教会所といえば、私にとりまして忘れがたいのは、元所長の荻原(おぎはら)央治(なかじ)先生との長きにわたった歳月です。ひとことで申せば、先生は若かりし頃の私にとって最高の後見人であり、また人生の師でありました。先生は典型的な外柔内剛の人で、おだやかな物腰の中に一本筋の通った第一級の人物でありました。その御道信仰の熱い心に加えて、国を想(おも)い郷土河原町を誇りにし、荻原家という大家(たいけ)の主(あるじ)としてのゆるぎないものを内に秘めた日本男子であられました。
 今日、私たちは教団本部のあります神道山(岡山市尾上)で、教祖宗忠神のてぶりに習って毎朝壮大なお日の出を迎えおろがむ“日拝”から一日の始まるまことに有り難い日々を重ねさせていただいています。これもひとえに、立教以来の霊地大元(いまも宗忠神社がある)から神道山へのご遷座を決定した昭和四十四年の教議会(黒住教の議会)議長をおつとめ下さった先生の並々ならぬ愛教のまこと心あったればこそのことで、今にその時のことは胸熱く思い出されます。この問題では、先生に本当にご苦労をおかけしました。誰しも歳を重ねると保守的になり変革は望まないものですが、まして歴史を重ねた宗教教団の本部移転ということになりますと一朝一夕(いっちょういっせき)になることではありません。先生は、若い私たちの思いに深い理解と期待を寄せて、この大問題に腐心(ふしん)、ご尽力下さいました。先生なかりせば神道山へのご遷座は果たしえなかったと言っても過言(かごん)でないと、今日改めてその愛教の誠に敬仰(けいぎょう)の思いがつのることであります。
 さらに昭和四十九年三月三日、その前年に六代目の教主に就任したばかりの私は、先生にご案内いただいて伊勢神宮に教主就任奉告のお参りをいたしました。実は先生は、その年四十八年十月、伊勢神宮の全国評議員会議議長として第六十回を数えた伊勢式年遷宮の大聖業に参画されていました。教祖神以来の伊勢神宮と本教とのご縁に加えて、先生のご尽力のおかげで、二十年毎の式年遷宮でその時に古殿となったかつての「御正宮(ごしょうぐう)」のご神木を大量に賜わることができ、今日の大教殿のご神殿部分をしつらえることができたのでした。
 ところで、これは昭和三十七年だったと思いますが、私が初めて河原中教会所におつとめした日の前晩のことだったと記憶します。所長であった先生は、町内の若い人々を教団の枠を超えて集められました。その時、ある方が私にされた質問です。
 「黒住の先生、あそこ(御神前)に神様は本当にいらっしゃるのか」
 「いや、今のあなたにはいらっしゃらないでしょうな。ただし、頭(こうべ)を垂たれ手を合わす時、その時、神様はたしかにいらっしゃいます」  「なるほど、分かった」
と言って、その方は正座してうやうやしく御神前にご拝なさいました。
 この短いが内容の濃い会話は、今もその状況とともにあざやかによみがえってまいります。それは、こういう答えをした私自身、日々の御神前ご拝の度に、まさに真剣でなくてはならぬとの自戒となって今に新しいのです。
 河原中教会所。この御名は荻原央治先生ともどもこのような意味でも私には忘れがたい大切な教会所になっています。
 どうぞ皆様の熱い祈りと奉仕の誠でもって、皆様の河原中教会所を大切に、一層ご神徳という光の絶えない教会所に育てていって下さい。