身を捨てる心
平成13年8月号掲載
既報のごとく、教主様とお親しい高橋秀氏が教授をつとめる倉敷芸術科学大学の芸術学部の学生さん方は、神道山に一泊して教主様の講義を受け、日拝式に参列することを恒例としている。これは、去る五月十九日に教主様がつとめられたご講義の大要である。 (編集部)
私が皆様方の先生である高橋秀教授のお名前を知ったのは、先生が文学界の芥川賞にも匹敵する絵画部門の登竜門「安井賞」を受けられた昭和三十六年でした。その数年後、この方がイタリアに行ってしまわれたことを耳にし、しかもそれが安井賞という権威の通じない所ならどこでもよかったのだということを聞くに及んで、なんと潔(いさぎよ)い生き方があるもの!と驚き胸うたれたことでした。高橋先生の、みずからに真の力を磨き養いたいとのたぎるような熱い心に感動したのです。
黒住教の教祖様の教えに「身を捨てて浮かむ瀬もある世渡りに舟のみおしむ身こそかなしき」という短歌があります。いわば“安全地帯”に身を置いてチョロチョロと手を出すようなことではノックアウトパンチにはならないように、創作活動においても、真の生命活動においても“身を捨てる”ようなきびしいところに本物は生まれてきます。事実、創造の“創”の字はバンソウコウの創と同じ字で、それは傷つくという意味があるのです。
若い皆さんはご存じないかもしれませんが、今年は昭和天皇ご生誕百年の年です。日頃、日本人であっても天皇陛下のことにも無関心で、そのご存在の意味も知らない人も多いのではないかと思います。
天皇陛下は、今も昔も王様でもなければ絶対君主でもありません。昭和という破壊と繁栄の時代を生きぬかれた昭和天皇は、日本の天皇の何たるかをもっとも端的に体現された方だと思います。それは先の大戦の終戦の年、昭和二十年の九月二十七日に集約されていると言っても過言でありません。
この日、陛下は数名の随員と共に皇居を出て、戦勝国を代表するアメリカのマッカーサー連合国最高司令長官をご訪問になりました。マッカーサーとすると戦争の歴史が常にそうであるように、負けた国の王様が命乞いに来る程度にしか思っていなかったのではないでしょうか。まず撮られた写真は、開襟シャツにノーネクタイで腰に両手を当てた大男のマッカーサーの横に、モーニング姿に正装された天皇陛下というツーショットでした。
会談が始まるや昭和天皇のお口から出たのは、戦争の責任はすべてご自分にあるとの御ひとことでした。続いてその理由を述べられ、御身をいかようにされようとマッカーサーに任すとおっしゃり、ただひとつお願いしたいことは戦争に責任のない国民が飢え苦しんでいるので一刻も早く食糧を与えてほしいというお言葉でした。
驚天動地とはこのことでしょう。自分の思っていたこととは丸反対の、しかも御身を捨てて国民を守り救おうとされる昭和天皇の御心に心底から感嘆したマッカーサーは、後にその回想記にこのときのことを詳しく記し、しかもぼう大な量のその回想記のサブタイトルを「我、神を見たり」としています。このことからもその感激の大きさが伺えます。傲ごう然と迎えた時とちがって、陛下のお帰りの節は、わざわざ玄関までお見送りに出たマッカーサー元帥でした。
これは後日、ヴァイニング夫人という今上陛下のいわば家庭教師であった人がその日記に書き残しているものですが、この時、昭和天皇はご自分を絞首刑に、とまでおっしゃっていたようです。といいますのが、昭和六十二年の九月、陛下が大手術を受けられた直後の頃だったと思います。名古屋に本社のある中日新聞のある記者が旧知のヴァイニング夫人の特別の許可を得て、夫人の滞日中の日記を中日新聞に掲載したのです。
当時の皇太子殿下の家庭教師に決まって来日した夫人は、マッカーサーを訪ねるわけですが、そこで元帥から昭和天皇との会見の様子を聞かされたようです。他言はならぬがこのような立派な方の後継者の先生になるのだからその心づもりで……と忠告を受け、陛下のお口から出たひとこと“絞首刑”をそのまま YOU MAY HANG ME. とその日記に書き残していたのです。HANG、洋服かけのハンガーの原語です。
昭和天皇はそれから間もなく全国各地にご巡幸になります。それはお立場上、お言葉で表現できないことであったと思われますが、戦争で夫を失い息子を死なせ、一家が不幸のどん底に落ち、しかも明日の食糧にも事欠く多くの国民の心を深くおもんぱかられての旅でした。当初、マッカーサーをはじめ連合国側は、陛下の御身の安全を思ってそのご巡幸に反対したようですが、各地で感きわまって涙してお迎えする国民の姿に驚き、またそのエネルギーに恐怖さえ感じたアメリカ人もいたようです。時には地下四、五百メートルの炭坑にまで入られてのご巡幸でした。しかし、只ひとつおいでになれなかったのが沖縄県でした。ご存じのように沖縄は激戦地にもなった所であり、またその頃はアメリカの領土になっていました。沖縄返還後もその機会のないままに時は過ぎ行き、昭和六十二年十月の沖縄国体で懸案の“沖縄ご巡幸成る”を目前にした九月、陛下は大手術を受けられたのでした。麻酔から覚めた陛下の第一声は「もうだめか……」であったと言われています。いいえ手術は成功いたしましたという担当医のご返事でしたが、その御ひとことはご自身の御身のことでなく、沖縄ご巡幸のことでした。「ようやく念願の沖縄へ行ける……」沖縄の地に立って県民はもとより激しい戦争に逝った霊方に万感のお思いでもって臨まれようとしていらした陛下の願いは断(た)たれたのでした。
思はざる病(やまい)となりぬ沖縄をたづねて果(は)たさむつとめありしを
その時の御製(ぎょせい)です。どのような“つとめ”がと問うのは野暮というものでしょう。
昭和天皇の戦後は終わらないまま、翌々年一月七日崩御になったのです。そして新たに即位された今上陛下は、早々に沖縄にご巡幸になりました。この時の今上陛下の御心に思いをはせる時、胸熱くなるのは私一人だけではないと思います。
なお、昭和五十二年二月、初めて来日したローマ法王ヨハネ・パウロII世は、その慣例を破って皇居に昭和天皇を訪ねられました。私たち日本人にとってはなんの不思議でもないことですが、カトリックの長い歴史の中で、ローマ法王が異国を訪ねた時その国の元首や首相が法王を訪ねて来るのが慣例となっているようで、この時の法王の皇居ご訪問は前例がなく一部の人たちの間で物議をかもしたようです。しかし、法王は、昭和天皇の御身を捨ててマッカーサーの前にお立ちになった事実を語り、その訪問は当然のこととおっしゃったということです。
黒住教の教祖様は「神ごころは親ごころ」と教えていますが、親というものは本来いざという時には我が身を捨ててでもわが子を守ります。これは動物の世界にもあることです。この強くも深い心があればこそ新しい生命は生まれ育ち、生きた世界が次々と展開されていくのです。
創作活動の原点もここにあります。日本という国の原点もここにあります。わが国がいきいきとしかも連綿と続いていく大元はここにあるのです。
(文責在日新社)
