人物紹介 御三方

平成13年6月号掲載

教主様には、過日、天満屋(岡山市)美術画廊で開かれた大倉道昌展(洋画)と西岡小十展(唐津焼)に推せん文を寄せられました。
 また、学生時代の京都大学ハンドボール部部長小野勝敏教授の送別会で、氏の人となりを紹介してその歩み来られた人生を称えられました。今月の「道ごころ」には、その二つのご文とご挨拶の一部を掲載いたします。(編集部)
パリ四十年の大倉さん

 何年か前、パリに大倉さんを訪ねた私は、高校の先輩・後輩の誼(よしみ)をもってこの街はもとより、フランスのここかしこを親しくご案内いただく幸せに恵まれました。中でも忘れがたいのは、中世の港町ラ・ロッシェルと山深き古都ブザンソンでした。港から大海に通じる水路の両側に立つ城門のような石造りの建物、蛇行する清流に抱かれた古都の家並み、またそこに散見されるローマ時代の遺跡など、静かに見つめる画伯は、まるで大舞台に立つ名優のようで、私はしばし距離を置いてその美しくも厳かな姿に見とれたことでした。なにゆえフランスに四十年もいらっしゃるのかが分かったようにさえ思えました。このような日々から、まるで長旅の渡り鳥が羽を休めるように郷里岡山へ帰られての個展は、私たちにとってはフランスの香を満喫できる貴重な時であり、画伯にとっては“やっぱり生まれ故郷はええですなあ……”と、思わず岡山弁が口をついて出るほのぼのとしたひとときとなっていることを嬉しく思います。一人でも多くの方に画伯の世界にひたっていただき、欧州の深さと明るさ、そして同時に岡山人の素晴らしさを心に刻んでもらえればと、後輩の私は請い願っていることです。

小十先生の個展に寄せて

 小十先生の茶碗は“米の飯のごとし”と申しましたら先生に失礼でしょうか。
 と言いますのが、ここ数年、私は朝の勤めの前に一服のお茶を點てて戴くのを常としているのですが、小十先生の茶碗でのときが最も気も張らず、気がついてみたらいつの間にか先生のお作を手にしているといった日が続いているからです。これは、造り手の先生ご自身が、水の高きが低きに流れるように、いわば自然体で蹴ロクロに向かわれているゆえではないかと拝察することです。
 この、いわば枯淡の味ともいえる味わいを醸(かも)し出す先生にして、しかも八十路を越えて、決然と加賀唐津なる新しい作陶生活に入られたと聞いた時は、わが耳を疑いました。
 昨年の正月すぎ、念願かなって金沢の街はずれにできた新しい窯に先生を訪ねた私は、唐津のお宅と変わらぬ静かなたたずまいの中ににこやかにお迎え下さり、唐津に勝るとも劣らぬ良質の土が見つかったことから今日までの経緯をお話しいただき感動を新たにしました。しかも、それにもまして驚いたのは、先生の傍らに作務衣を着てまるで大店(おおだな)の番頭のごときしぐさで仕える方が、金沢でも屈指の大家のご主人であったことです。  人間の尊さをいずれに見るか、人さまざまでしょうが、私は改めて小十先生の人となりを見た思いで、加賀唐津の作品たちもさることながら、先生ご自身を心底から仰ぎ見たことでした。

京大ハンドボール部小野勝敏部長送別の辞

 テツ(小野勝敏氏)の退任に際し、テツを最もよく知る者として、ここで皆さんにテツのテツたるゆえんを話しておきたいと思います。
 今、聞きますと、教授生活は(京都大学工学部冶金学――現在はエネルギー科学)十九年になったようです。ということは、わがハンドボール部部長を十九年間の長きにわたって務めていただいたわけで、改めて御礼申し上げる次第です。十九年前、われわれはいわば自前の部長を初めて持ったことを喜んだものです。
 実はテツというあだ名は、大阪の天王寺高校から京大に入学してハンドボール部に入って来た昭和三十二年、新入生の歓迎会で“新世界のテツとはオレのことだ!”と声を大にしまして、ここに始まったわけですが、まさに鉄のような堅い意志を貫いた男でしたし、冶金学という金属関係の教授にまでなったのですから、彼の今日までの歩みは実に“名は 体(たい)を表した”歳月だったと思います。  現役の選手としては、決して器用な男ではありませんでしたが、本田をキーパーにセンターフォワードに川野、ハーフセンターにテツ、フルバックに石崎ゴンベというラインを中心にした当時のわが部は、インカレ(全日本大学選手権大会)でベスト4に入り、その年昭和三十四年の大学東西対抗戦、東京の国立競技場で行われたこの晴れの舞台でも、この京大のライン四人を中心にしたのが西軍チームであったのでして、このことはわが部の長き歴史に残る輝かしいものでした。ですから、テツは選手としても“超”の一字は付かないまでも、一流の選手としてのハンドボール生活を送ったといえます。
 それにもまして、私が申し上げたいのは大学を出てからのその生き方です。
 彼は(株)住友金属鉱山へ入社しました。四国の新居浜の沖に、瀬戸内海の小島の一つですが、四阪島という島があります。ここにこの会社の精錬所がありまして、そこに配属になったのでした。
 ところが、やはり教授になるだけのことはあって学問への熱い思いは断ち難く、なんとしても自分は研究生活に戻りたいということで、“それではさよなら”ということにしないのが、テツのテツたるゆえんでして、それから彼は一層頑張りました。忘れもしません、当時ニッケル一トンを精錬するのに日本で百万円かかった、ところがカナダでは、六十五万でできる、到底かなわないわけです。そこで彼は溶鉱炉の改良に努め、一トン八十五万でできるものを作り上げ、それを置き土産にして京都へ帰って来ました。今伺いますと、近々上京して経済産業省関係の、今度はニッケルならぬチタンのそういう溶鉱炉づくりに取り組むということですから、やはり若い時とテツは変わらんなあ……という思いを強くしたことです。
 かくしてここ京都へ帰って来たテツは、この京大会館の先の日仏会館でフランス語の勉強を始めました。パリ大学というかソルボンヌへ留学するためでした。これが昭和四十年、一九六五年ですかな、彼はパリへ行きました。その一週間後に、私は初めてパリへ行って、テツに会うわけです。
 フランス語ペラペラのテツと思っていますからね、大船に乗った思いであちこち連れて行ってもらおうと……。まず、レストランへ行ったわけです。ところが魚を注文したはずなのに肉が出て来たのには驚きました。全く彼のフランス語は通じていなかったのです。事実、そのフランス語は生きたものではありませんでした。そこでまたまたテツはテツたる行動に出ます。彼はベルギー国境近くの炭鉱に入りまして、フランス人と寝食を共にし、石炭堀りをしながらフランス語をマスターしたのです。生きたフランス語を学ぶとともにフランス人気質(かたぎ)をも学んだのです。しかも、学費も稼いだ。そしてついにはドクターを取って帰って来たのです。京大広しといえども、工学系でソルボンヌで博士号を取ったのは彼が初めてではないかと思います。まさに鉄の男です。見上げたものです。
 それから講師、助教授を経て教授になっていくわけです。
 こうしたテツのテツたるゆえんの日々を重ねて教授になって、われわれ待望の自前のハンドボール部部長が誕生して十九年、今春、教授を退官し名誉教授になりきょうの送別の日を迎えた……ということです。
 彼の長い研究生活のことを私は知りませんし、また分かりもしませんが、現役の学生諸君、また若いOB諸兄に申し上げたいのは、テツのそのテツ魂に学んでもらいたいということです。
 そのあくなきチャレンジ精神に、ぜひとも学んでいただきたく紹介した次第です。