参画、参加、参拝の大切さ ==教祖神百五十年大祭に学ぶ==

平成13年4月号掲載

昨年の九回にわたりました“教祖神百五十年大祭”は、まことに有り難く斎行でき、ご同慶の至りでしたが、同時にこの御祭りはこれからの教団本部はもとより教団全体のありよう、またそれぞれの皆様の教会所のあり方を示唆していただけた意義深いものであったことを尊く思います。
 それは表題のごとく、皆様の参画による、皆様が参加し参拝された御祭りであったことです。
 本教には誇るべき制度としての黒住教教議会は、明治四十二年に始まり先月三月十四日、十五日の第一四五議会まで九十年を超えて連綿と続けられています。ここでは、北は北海道から南は九州まで二十の教区に分けられた所から皆様の代表が選出されていて、本部当局と共に毎年の予算決算をはじめ諸々の行事、事業の審議がなされています。そして、それぞれの教区に教区長――これはすべて教会所の所長ないしは常勤教師が兼務――がいて、本部当局と一体的に教団活動を展開されるしくみになっています。形の上ではこれで十分ではないかと思われるかもしれませんが、このような従来の伝統的な会議とは別に、第一線の所長十名余からなるその名も「百五十年会」なる会議が教祖神百五十年大祭に向かって数年前より毎月開催され、本部当局と共に自由討論のような姿で積み重ねられていました。ここには、それまで届きがたかった第一線の所長・常勤教師をはじめお道づれ各位の声、要望、意見が次々と集まってくるようになりました。しかも、第一線の教師の身であると同時に全教団的な立場に立って錬りに錬られたものが表にあらわれ、中には教議会の議決を経て実行に移すようなことも生まれてきました。
 それは日々の“御開運の祈り”に併せての“教祖神百五十年大祭成就の祈り”の実践に始まり、所長・常勤教師の大教殿における勤番修行もそういう中から始まりました。ともにつとめた“一千万本のお祓い献読”もそうでした。“ビデオで見る黒住教”の製作と皆様への配布もこの中から生まれました。従来の本部中心でつとめられていた社会奉仕活動が、「まることボランティアの日(まるボラン)」という名のもとに、それぞれの教会所のそれぞれの地域における福祉施設をはじめとする公共設備への奉仕活動として展開されだしたのもそうでした。それらはすべて、所長・常勤教師あるいは総代、お道づれみずからの体験や日頃願われていたことで、この百五十年会に取り上げられて全教団的なものとなりました。
 長年の懸案の“祖霊殿”が出来たのもしかり、“動く参道”もそうでした。
 「自分の目の黒いうちはよい。しかし自分が亡くなったとき、わが親はもとより先祖のお墓はどうなるのかと思うと夜も目が合わない……」という切実な声は、百五十年会の皆さんが一様に耳にしてきていた難題でした。
 かつて神道山十万坪の境内地購入のとき以来、奉仕の汗を流してきた先輩方の「神道山の階段はこの歳では歩けません。教祖様の百五十年大祭はわが家の御神前で遥拝します… …」の声は、私どもの耳に直接間接に次々と入ってきました。
 また正参道前広場の整備拡充で、交通事故の恐れさえあったものも解消され、参拝の皆様の危惧は一掃されました。
 有形無形に、今日の言葉でいえばハード面ソフト面、あらゆる面でお道づれの皆様の声が百五十年会という器に入れられ、そこで錬られ計画されて実施される、その動きにまた多くの皆様が参加された上での九回にわたる大祭への参拝でした。逆に言えば、参拝に至るまでにこの大祭のために多くの方々が企画、計画に参画され、そこで生まれた様々な行事、事業に参加され、その上での参拝でありました。


 昔、本教にあってはある大きな教会所の、これまた大先生と呼んでもおかしくない所長が急逝いたしました。教会所総代は鳩首相談の上、未亡人に急きょ白羽の矢を立て、お道教師になりたてのこの方を所長にすえました。
 この婦人はどちらかというと知性の勝った人でしたが、何しろ急に座らせられた所長の座、彼女が貫いたことは毎朝の日拝に始まる御神前ご拝以外は、「私は何も知りませんし、何もできません。皆様どうぞよろしく」でした。悩み苦しむ方のためにも、その方の訴えにひたすら耳を傾け、あとは本部大教殿に、まさに取り次ぐのをモットーとしました。教会所の会計はもとよりそのとり運びのすべてを総代会に委ねました。いわば、器でいうならば“からっぽ”の器に徹しました。それまで教会所のことは所長一人に任せっぱなしであった総代さん方も、これではならじと立ち上がりました。すなわち参画し始めました。もちろん様々な意見、要望は玉石混交でしたが、そこが教祖神のお心が脈々と生きている本教の教会所です。ことは治まるところへ治まり、この教会所は先代の所長の時をはるかにしのぐ勢いにみちた活動的な教会所に変貌してゆきました。
 この度の教祖神百五十年大祭、そしてそこに至る百五十年会の積み重ねた歳月を振り返るとき、この教会所の歩みが思い出されてきます。


 黒住教という宗教教団は、言うまでもなく教主一人のものでもなければ一部の人のものでもなく、教祖神にご神縁をいただく無数の方々のものです。教会所もしかりで、一人の所長、教師、一部の総代のものでもありません。しかしここが難しいところで、大切なことは福沢諭吉が常に口にしていたといわれる“公は私なり”の精神です。これはいわゆる公私混同とは丸反対で、教団、教会所という“公”のことを“わが事”としてどれだけ本気で誠ごころをもって取り組みつとめるかということです。しかも中心になるこの人たちが、どれだけ器の“ふたを開き”しかも“からっぽ”になれるかです。それは台風の目のように、そこが真空状態であればあるほど全体としてはエネルギーの高いもの、すなわち “活きた働き”ができるということです。
 御教えの「我を離れる」はもとより「無を養え」、「大祓いに祓う」ことの大事は、教主である私はもとより、各教会所の所長にとって、個人的な修行眼目にとどまらず、その立場に居る者が常に忘れてはならない御教えであることが改めて分かります。それは一家庭の父、母、主人、主婦の立場にもいえることでありましょう。
 “ふたを開いた”時に初めて入ってくるものが現れてきます。“からっぽ”になった時に湧き出てくるものがあります。これこそが活きた本物です。
 そういえば、父五代様は扇子など私のために染筆なさるときは、きまって「安宝」と書いて下さっていました。安宝==あほうです。「御教えの中で最も難しい修行はこの御ひとこと」、そして「最も安い宝だ」と言われるのが口ぐせでした。よほど私は小利口だったのでしょう。汗顔の至りです。
 御神詠「姿なき心ひとつを養うはかしこき人の修行なるらん」をこそ、私たち黒住教を信仰するものは目指さなくてはなりませんし、この“かしこき人”こそ今日最も求められているのではないかとしみじみ思うことです。