心身の健康のために

平成20年4月号掲載

 教主様が久しく親しくされていますM氏が、急病に倒れ、初めて教主様の御祈念を受けられました。この度本復され、大教殿に御礼参拝の感激の日、教主様とのお話を誌上に再現させていただきました。   (編集部)

M氏 風邪気味でしたので咳(せき)止めの水薬を飲みましたが、なかなか治りませんでした。寝込むほどではありませんでしたので服用を続けて辛抱していましたが、昨年暮れの夜に激しい嘔吐(おうと)を催しました。15分に1度くらいのペースで一晩中、嘔吐を繰り返し血まで吐くことになりまして、翌朝かかりつけのお医者に走りました。しかし、そこでは手に負えないと直ちに大きな病院に運ばれました。とても苦しい時が続きました。かつて胆のうの手術を受けたことがありましたが、どうも癒着して腸閉塞を起こしていたようです。
 翌日、御祈念いただいたことでしたが、有り難いことに手術することもなく、化学治療だけで回復することができました。 教主 それは有り難いことでした。ひと歳とってのこのような病は、どうしても悪性のものではないかと疑心暗鬼して、身体の痛みもさることながら心を痛めがちなものですが、大事に至らずに本当によろしゅうございました。
M氏 それにしましても、この度はわが身のことながら何もできない、何も分かっていないことに気付かされました。わが生命(いのち)であってわが手の中になく、わが手を離れているといいますか、生かされて生きているのだということを、痛い目にあって初めて身に染みて知らされました。
教主 それは尊いことをご自得なさいました。教祖様の代表的な御教えに「難有有難」すなわち「難有り有り難し」とありますが、高弟の1人は「かわいさに難まできせて天地(あめつち)の誠の道をふましむるとは」と詠(よ)んで、“難”の持つ深い意味を教えてくれています。難を受けて喜ぶ者はいませんが、この度のご体験も「難を受け損にすな」との御教えもありますが、これからの人生への大きな糧(かて)として下さい。
M氏 本当にそうしなくてはなりません。
教主 それにしましても腸、特に小腸は、特別、神秘の器官のようですね。かつて消化器外科の名医とうたわれた方に尋ねたことがあるのですが、胃ガンをはじめ大腸直腸を1,000例以上のガン手術でメスを執ったこの方が、小腸ガンにはお目に掛かったことはないとのことでした。「あそこにはガンはできないのです」とまで言われました。小腸は、口で食べたものが胃で消化され、栄養として吸収されるところくらいしか知らなかったものですが、極めて神秘な働きをするところだと数年前に専門家から教えられました。それは、小腸はいわゆる免疫力のセンターということです。言われてみますと、私たち日本人は、昔から小腸を中心としたいわゆる腹=肚(はら)を心の座として尊んできたように思います。心の働きを“頭”や“胸”でも表現しますが ~例えば心配することを頭が痛いと言ったり胸が痛むと言うなど~ 腹=肚という言葉で表現するのは実に多く“頭”や“胸”の比ではありません。“腹を立てる”から、“腹のきれいな”、“腹の座った”、“腹を割って話す”など、ちょっと思いつくだけでも次々とあります。今日の科学では、心の座は脳ということですが、“肚はもう1つの脳”という人も出てきました。私は、肚は奥の心ともいえる魂の鎮まるところだと思っています。
 実は、腸を患われただけにぜひともおつとめいただきたいと思うことがあります。ご存じのように、ここ神道山では毎朝お日の出を迎えて拝(おろが)む御日拝を欠かさずつとめていますが、この御日拝の中心をなす「御陽気修行」をぜひおつとめされたらと思います。これは、まるで水を飲むように日の光、すなわちご陽光をごくんと飲み込んで下腹に納める行(ぎょう)です。一種の呼吸法で、いわゆる丹田(たんでん)呼吸=下腹をへこませて息を吐き切り、次いで下腹を前に突き出せば自然と空気は入ってくる=下腹で息をする行なのですが、空気は、光を飲みこんだときについでに入ってくるくらいの思いで、ご陽光を有り難く、感謝の心でもっていただくのです。「御陽気をいただきて下腹に納め天地と共に気を養い」という教えの一条がありますが、御陽気修行の神髄を教えられたものです。特に山の端(は)から昇るお日の出の最初の御光をいただきますと、腹の底から熱いものが湧(わ)き出るような感動があります。ひと息ひと息がなにか大御馳走(ごちそう)をいただいているようなまことに至福のときです。ずっとこのまま御陽気をいただき続けたい思いにさえ駆られます。実に“自分は生かされている!わが生命の元はお日様だ!”。全身に清新な気がみなぎるのを感じます。いわば“いのちの充電”のときともいえます。このような日拝式を終えて大教殿でのおつとめになっていくわけですが、この大教殿への道中がまた至福のときで、1枚の木の葉、石ころのひとつとも話ができるような思いにひたっています。最も心おだやかな、平和なときともいえましょう。この心で1日24時間を過ごすことができればいうことはないのですが……。実は、かつてNHK岡山放送局にいた方で、今は奈良県の明日香村の古い神社でおつとめの方が、このところしばしば「音読のすすめ」というタイトルで講演されているということを知りました。かつて親しくしていただき今は神職の身にある方だけに、いつもどうしていらっしゃるかなと思っていたのですが、この話を聞いてとても嬉(うれ)しく思いました。「朗読が芸ならば、神社で奏上する祝詞(のりと)のように音読につとめることは心身の健康法」と仰(おっ)しゃっているようです。
 先程、あなたの病気平癒報賽のご拝のときも唱えました“大祓詞(おおはらえのことば)”、これはわが国ではるかなる昔から神に祈るときに唱えられてきた祈りの詞(ことば)で、いわば日本語の原典ともいえる美しい大和(やまと)言葉からなっています。これを下腹からの声で唱えるとき、まさに神に通じる“神言(かむごと)”となります。そして同時に、下腹に鎮まる魂=私たちはお日の出に現れる大御神様のわけみたま(ご分心)と申していますが=このご分心を養う絶好のときともなるのです。
 ぜひとも、毎朝、日の光を飲み込む御陽気修行から始めて下さい。
M氏 有り難うございます。「自分の体であっても、決して自分のものでない」ということに気付かせていただきましたので、この病の体験を無駄にせぬようにつとめてまいりたいと思います。