強い祈り
平成20年4月号掲載
神道古来の「大祓詞(おおはらえのことば)」はもとより、日頃いわゆる“お祓いを上げる”とき、私たちはその言葉の意味を離れて、下腹からの声でひたすらつとめます。しかし、時々お祓い本を取り出してじっくり読むとき、随所に深い意味を発見して驚きます。
そのひとつが、「禊祓詞(みそぎはらえのことば)」の中にある次の一節です。
「……祓戸(はらえど)の大神等(おおかみたち) 諸(もろもろ)の枉事(まがごと)罪(つみ)穢(けがれ)を祓え給え清め給えと申す事の由を 天(あま)つ神国つ神 八百萬神(やおよろずのかみ)等共に天斑馬(あめのふちこま)の耳振り立てて聞(きこ)し食(め)せと恐(かしこ)み恐み白(まお)す」
祓戸の大神をはじめ神々に「恐み恐み白す」と極めて丁重ではありますが、天斑馬という耳さとい馬が耳を振り立てて聞くようにお聞き下さいと、まるで叱(しか)りつけるような勢いで祈りつけています。絶えず唱える“みそぎ祓い”だけに、慣れてはならないと自戒しつつも、この強さでもって祓うことの大事を改めて思います。やはり祓いは
鬼もじゃもみなきりはらいいきものを養う人にいたずきはなし(御歌88号)
の心でつとめねばならないのです。
教祖神のお説教には八百萬の神々がお集いになると、高弟方は心底有り難く拝聴し感嘆されていましたが、また教祖神が各地の神社へお参りになると、その神社の御斎神に更なる御徳をお授けになっていたと、高弟方は語り今に伝えられています。そういう中でも顕著なのは、“小串(こぐし)沖ご難船”の御逸話(ごいつわ)(御逸話集15)です。
今も岡山市を東西に二分して流れる旭川から児島湾を経(へ)て、瀬戸内海、そして四国へと、昔からひとつの航路がありました。教祖神がある日、この道筋で瀬戸内海の小豆島方面に渡ろうとされていたとき、児島半島の小串という所にある海から屹立(きつりつ)した垂直の山に東風が当たって起こったいわゆる“三角波”で、船は木の葉のように翻弄(ほんろう)され、今にも沈没しそうになりました。
その時、教祖神は揺れ動く船の中で“矢立て”から筆を取り出して1枚の紙に次のような歌を書いて、祈りを込めて海に投げ入れられました。
波風をいかで鎮(しず)めん海津神(わだつかみ)天つ日を知る人の乗りしに
常日頃は、一教の教祖とも思えぬ謙虚なお姿の教祖神が、烈々たる気迫でもって海神を叱りつけ、祈りつけられた御逸話です。
有り難くも、程なく風は止(や)み波も静まり、無事、船は目的地へ向かうことができました。実は、この船に同乗していた鳥取県の人が故郷に帰ってその感激を話したことが、今日の倉吉大教会所創立の元となったのでした。
かつてこの欄で紹介したこともありますが、私が学校を終えて今日の白衣の生活に入って間もない頃、日頃“お松あんばあさん”の愛称で多くの人から慕われていた老婦人が、この日ばかりは眼をつり上げて大教殿に参って来て、その娘さんの手術の御祈念を申し込みました。五代様の後ろについて私も御神前に上がり、御祈念が終わって五代様がこの老婦人に挨拶(あいさつ)されようとしたときでした。この人は、教場から御神前をきっと見据(みす)えて前に進み出て斎場に両手をつき、「宗忠の神様! この松の娘の幸(ゆき)が生きるか死ぬかでございます! ご油断めさるな!!」と大喝したのです。私はその迫力に圧倒される思いでしたが、五代様はこの人に向かって拍手を打って拝んでおられました。
この時、祈りはときには真剣勝負なのだと、肝(きも)に銘じたことでした。
教祖神は
たとえお祈り申し上げ候(そうろう)ても、ご精弱きときは、祈り候ても神徳薄く……(御文223号)
と弱い心ではおかげを受けにくいことを注意され、さらに
信心は、心弱くては役に立ち申さざる……(御文89号)
とまで言い切られています。
それはご自身のご体験を詠(よ)まれた御神詠にも明らかです。
おのれに勝ちて神と一体
かくなれば今よりのちは天(あめ)つちの中はわが身のうちとなるらん(御歌94号)
このように、つまるところ、敵は自分自身の中にあるのです。疑い、臆病、怠慢……まさに獅子(しし)身中の虫であるいわゆる“我”こそ弱い心の元凶です。教祖神にして「おのれに勝ちて」の“おのれ”はそういう“我”そのものだったのです。
「我を離れよ」「天に任(まか)せよ」、すなわち「離我任天」の大事を高調されるゆえんです。
天に任せるほど強い生き方はありません。前記の御文89号には、続いて
何事も何事も、天に任せ候ほど、強きことはござなし
とあります。また御文221号では
何事も天命に御任せ、とかく(いずれにしても)下腹にお心をしずめ、すなわち雷復(らいふく)のごとくに、陽気自然と発し候ようになされ候(そうら)えば、開運なさらずと申し候ことござなく候
と御教えになっています。
私たちが身につけたい御道信仰は、いざというとき、
教祖の神様! 教祖様! 宗忠様!
と、心の底から呼びかけ、叫び、その御懐(みふところ)に飛び込んでいくような“任せ切る”心です。