教主三十年の歩み[3]

平成15年12月号掲載

 教主様ご就任三十年を記念して、前々号よりこの三十年の歩みをお伺いしてまいりました。その締めくくりとして、今号は「国際活動」についてのインタビューの要旨を掲載いたします。
 本教のとり進めてきている“宗際活動”の意義を学び、立教百八十九年・平成十五年度の本誌も締めくくらせていただきます。(編集部)


 ―教主様は、今日、世界的視野に立って私たち道づれをお導き下さっていますが、世界に目を向けられるようになったきっかけをお教え下さい。

 教主 重症心身障害児施設「旭川児童院」設立のための“重障児運動”をつとめ終えたばかりの昭和四十年十月から四カ月間、家内と共に世界のあちらこちらを巡ったことがきっかけとなりました。元経団連会長の土光敏夫氏(当時東芝社長)や日中国交回復に尽力された岡崎嘉平太氏(当時全日空社長)をはじめ経済界で活躍されていた岡山県出身の方々がご支援下さって、世界一周の旅に出かけ、各国の福祉施設を見学しました。タイを訪ねた際、私の大学時代の好敵手であった野中耕一氏(東大ハンドボール部の元キャプテン)が迎えてくれました。アジア経済研究所の主任研究員であった野中氏は、もっとアジアに目を向けアジアの人々と共に手を取り合っていくことの大切を教えてくれました。その折、初対面から意気投合したのが、後にバンコク市の知的障害児施設ラジャヌクル・ホスピタル院長になったV・コンクリス先生でした。後年(平成元年)、コンクリス先生のお招きで、バンコクで開かれた「第九回アジア知的障害研究連盟総会」において専門家の方々を前に特別講演をつとめさせていただくほどのご縁に発展しました。

 ―そうしたご縁の中に、アジアの福祉施設等で働く人々を岡山に招き、日本一いやアジア一といえる総合社会福祉法人「旭川荘」で研修を受けていただく“福祉外交”が始まったわけですね。

 教主 実は、旭川荘に研修生を初めて招いたのは、昭和四十二年に旭川児童院が設立なったばかりのことでした。その当時まだ外国だった沖縄の知的障害の方の施設に働く“島袋”という青年から「ぜひ新しくできた児童院で勉強させてほしい」と手紙をもらい、お迎えしたのがきっかけでした。その後昭和五十五年、バンコクにラジャヌクル・ホスピタルを訪ねた際、何かお役に立てることはないかとコンクリス先生と話し合う中に生まれたのが“福祉外交”でした。タイからの研修生が、“福祉外交”の第一弾(昭和五十六年)でした。それ以来、韓国、フィリピン、シンガポール、マレーシア等に、その輪は広がっていき五十七名の方が旭川荘に来られましたが、こうした画期的な活動も「ありがとうございます運動」の浄財があったればこそできたわけで、お道づれの皆様の誠ごころを心より有り難く思っています。今日では旭川荘そのものが、アジアの障害者問題に取り組む人たちの教育センターにまでなっています。

 ―本教の“福祉外交”がそのきっかけになったのですね。ところで、アジアといえばシンガポールで開かれた第一回アジア宗教者平和会議(昭和五十一年)に日本の宗教者の代表として参加されたのが、本教の“宗際活動”の始まりでしたし、続く世界宗教者平和会議のご出席と、お心に残るところをお聞かせ下さい。

 教主 神道山に上がった翌年の昭和五十年、立正佼成会開祖の庭野日敬前会長がお参りになりまして、お声をかけて下さって出席したのが第一回のアジア宗教者平和会議(ACRP)でした。有り難いことに初めて参加したこの国際会議で開会と閉会の祈りをつとめさせていただきました。この時マザー・テレサ女史と壇上に共に立ち、親しくお話ができたことが印象深く残っております。それが機縁で、第三回世界宗教者平和会議(WCRP─昭和五十四年)へのお誘いを受け参加いたしました。この折にも開会式で祈りをつとめることになりました。場所はニューヨークのセントパトリック大聖堂でした。その時に訴えたことですが、一人として同じ顔をした人がいないように、個人も国も宗教も、それぞれ違うわけです。違うのが当たり前です。しかし、同じ人間として共通項があるはずです。いわんや宗教には神仏を崇(あが)めること、あるいは霊的な働き、霊性を認め尊ぶという共通項があります。そういう共通項で結ばれる宗教者でありたいというようなことを訴えました。決してそれがきっかけとは申しませんが、今日、そういう考えを持つ人が増えてきたことを有り難いことだと思っています。それにしてもその時、面白かったというか、まさに同じ日本人という意味の共通項を見ました。袈裟(けさ)をつけた仏教の方も、キリスト教の女性聖職者も同じように、私が壇上にいるとき、日本人として無事につとめることができるようにと仏様やイエス様に祈っていた、と聞かされました。この会議で忘れがたいのは、当時険悪な仲にあった中・ソ(当時)の宗教者が握手する仲とりもち役をふとしたことからつとめることができたことでした。
 この開会式がきっかけとなって、現在ハーバード大学宗教学教授のヘレン・ハーデカ先生が黒住教に関心をもたれたとお聞きしています。後にハーデカ先生がプリンストン大学準教授をお務めの時、同大学東アジア研究学部で講演(昭和五十七年)をつとめたり、最近ではハーバード大学主催による「吉備楽公演会」(平成十年)に招かれるといった広がりをみせることになりました。さらには、ライト大学とデイトン大学共催で開かれた「神道黒住教研究会議」(昭和六十年)に出席することにもなりました。その当時ライト大学宗教学教授であったウィリス・ステイツ博士は、後に「黒住教教祖伝」と「教祖様の御逸話」を英訳してアメリカで出版されました。

 ―日本を代表する現代陶芸作品をニュージーランドをはじめ、オーストラリアやアメリカの美術館に贈呈する“文化外交”は、本教ならではのものでした。

 教主 神道山に上がって間もなく大元の旧大教殿を改修してもらって、柔道剣道あるいは空手道の武道館として青少年の健全育成のために開放しました。昭和五十二年に、オーストラリア・シドニーのニューサウスウェールズ州のポリス・シチズン・ユースクラブ、警察と市民による青少年健全育成団体の柔道部が初めて日本にやって来ました。その最初の試合を最も道場らしい道場の黒住教武道館でやってほしいということから、大元の道場の連中を中心に迎えたことがきっかけでした。今では県下全域からの中高校生の選抜チームがオーストラリアへ遠征する交流が始まって二十数年になるわけですが、そういう流れの中で訪ねたオーストラリア、そしてニュージーランドとの縁がもとでニュージーランドに昭和五十五年、奇しくも教祖神ご降誕二百年を記念しての“文化外交”へと発展しました。日本現代陶芸代表作品五十点の贈呈でしたが、それもこれも五代様の時からご縁の深かった備前焼の人間国宝金重陶陽先生、藤原啓先生といった方々と本教との絆(きずな)が元で、この際、幅広くあらゆる分野の陶芸家の協力を仰ごうと、お世話下さる方も次々と出てきました。しかも、折しも日本の総理大臣として初めてニュージーランドを訪問する大平正芳総理(当時)が持って行って下さることになりました。ニュージーランドはクライストチャーチ市のカンタベリー美術館にお持ちいただきましたが、続いてオーストラリアにもということになり、翌五十六年、立て続けに陶芸家の皆様にお世話になり、ご献納いただいた三十六点(その後の追加で現在四十七点)がニューサウスウェールズ州立美術館に届けられました。この時は、州のネビル・ケネス・ラン首相(当時)をはじめ在シドニーの日本人会の幹部方も出席しての贈呈式が執り行われました。それが今に続いて、柔道の交流の度に追加されてきているのです。
 アメリカの場合は昭和六十二年、当時のマンスフィールド駐日大使のお力添えによりフロリダ州レークランド市のポーク美術館に三十一点(現在三十七点)を贈りましたが、いずれも少しでも日本の国際理解につながればと願ってのことでした。

 ―日本とオーストラリアの子供たちの柔道の交流は四半世紀が過ぎたわけですが、柔道の交流を通じて行われた、平成八年のオーストラリア・カウラでの日本人戦没者慰霊祭の“霊現”は忘れられません。

 教主 これとても、オーストラリアからの柔道チームが来たのが年末の十二月三十日のことで、忙しいからと言って断っていたら“文化外交”やカウラでの慰霊祭もできていなかったはずです。その時に皆様方が快く受け入れて下さった。それがこれだけの広がりになっているのです。国際関係も日常の人間関係も一緒です。何事にも誠を尽くすことが大事ということをこのことからも学びました。

 ―こうした実績のもとに、平成二年の黒住教宝物館まることセンター竣工を記念した「神道国際研究会」が神道山で開催されたわけですね。

 教主 副教主が大学を終えて、ロンドン大学に留学の機会が与えられて二年ほど向こうに行っている時でした。オックスフォード大学において環境問題についての国際会議が開かれて副教主が参加しましたが、そこにはダライ・ラマ法王やマザー・テレサ女史をはじめ宇宙科学専門家、国連大学元総長などの錚々(そうそう)たる方が参加されていました。この時のご縁で、同会議の執行委員の皆様方が、日本をよりよく知るために神道を学びたいということで、「神道国際研究会」を開催する運びになったわけです。
 特に忘れがたい方は今も最長老としてご健在ですが、シリアのイスラム教の最高権威者アフマド・クフタロ師でした。厳しい中東問題の、イスラム教の一方の旗頭といえる方が神道山に滞在し、副教主の案内で伊勢神宮までお参りされました。会では、一人われわれだけが神道について語るだけでなく、國學院と皇學館、両神道大学の現役の学長とか、後に学長になる方もおいで下さって、仏教の側からも薬師寺の当時の高田好胤管長も熱弁を振るわれましたし、またヘレン・ハーデカ先生をはじめ西洋社会、さらにアジアのタイの神道研究者の目から見た神道についても話してもらいました。この姿勢を参加の人たちが評価してくれたのも忘れがたいですし、こういう姿勢は今後も大切にしたく思います。

 ―画期的といえば、日本に入国すらできなかったチベット仏教の最高指導者でノーベル平和賞を受賞したダライ・ラマ十四世法王を神道山に招聘(しょうへい)されましたが。

 教主 去る十月から十一月にかけて日本にお越しになっていましたが、われわれがお迎えして四回目のご来日でした。今はある意味では自由においでになっているわけで、そのきっかけを作ることができたことは光栄なことだと思っています。これも本教がしかけてやったわけではありません。ダライ・ラマ招聘(しょうへい)委員会というのができていて、物心両面ともに準備が整っていたにもかかわらず、身元引受人としての宗教教団がなかなか決まらずにいて、それで本教に白羽の矢が立ったのでした。
 いうまでもなくチベット仏教の法王ということもさることながら、チベットという国を失った流浪の民、世界に散らばっている六百万人とも七百万人ともいわれるチベット人の輿望(よぼう)を一心に担っておられるのがダライ・ラマ法王です。それがあれだけの人物を育て上げたのかなと思うほど、磊落(らいらく)で厚みのある大人物でした。お迎えした甲斐(かい)があったと思います。

 ―様々な“宗際活動”を象徴するのは、平成十二年(二〇〇〇年)の「ミレニアム世界平和サミット(国連宗教サミット)」だと思います。教主様には全世界の宗教者を代表してサミットの締めくくりのご挨拶(あいさつ)と祈りをおつとめになり、副教主様には日本使節団の幹事長としてご活躍になったことを誇らしく思いました。

 教主 国連宗教サミットの大役も、日本宗教界の、世界宗教者平和会議日本委員会、世界連邦日本宗教委員会という二つの団体がお支え下さったればこそできたことでした。わが国宗教界の大先輩方が若い副教主をもり立てて下さって、当時の久邇邦昭伊勢神宮大宮司、そして九十歳になんなんとした渡邊惠進天台座主をはじめ二十七名の日本使節団のお世話役をさせていただけた、本当に光栄なことでした。
 こうしてみてきますと、国際的にも私どもの役割ということが、はっきりと浮かび上がってくるわけです。それは“仲とりもち役”、“お取り次ぎ”というか“結びの役”です。これは人間関係だけの問題ではなく、宗教そのものの役割がそういうところにあるのではないでしょうか。宗教と科学の結び、宗教と日常生活との結び、とかくいろいろな分野で孤立化が進む今日、それぞれの縁が薄くなる傾向にある中で、その結び役を果たしていくのが宗教の今日的な役割ではないかと痛切に感じています。これからもこの姿勢を貫いていきたいと思います。