カウラの六十年祭
平成16年12月号掲載
去る十月三日から十一月二十一日にかけて執り行われました立教百九十年・神道山ご遷座三十年の記念大祝祭も、大勢の皆様方が連れだってお参りになり熱いお祈りを捧げて下さり、まことに有り難く存じました。有り難くも楽しい喜びに満ちた祝祭であったことを、心から嬉しく思っております。
四年前の平成十二年の秋にも、教祖神百五十年大祭が十月から十一月にかけて繰り広げられたことでした。この時も大教殿を埋め尽くした参拝の皆様の熱い祈りの中で御祭りが斎行されましたが、特にこの御祭りでは、私は六代目の教主の座にいる幸せをしみじみと感じさせられました。と言いますのも、わが大々先祖が教祖宗忠神なればこそ、このように盛大に百五十年の式年祭を行ってもらえたわけで、このご恩返しをいかにつとめるかに思いはめぐりました。そして、各教会所における教祖神百五十年大祭を計画してもらい、私や長男の副教主が斎主として、教徒はもとよりご縁ある方々の先祖先輩の霊(みたま)まつりをつとめて敬仰(けいぎょう)と感謝の誠を捧げることに思い至りました。おかげで、全国の教会所で皆様が温かく私どもを迎えて下さり、四年間、無事に教会所巡拝を重ねることができ、今年の記念の祝祭をお迎えすることができたのでした。
わが国の諸々の宗教の中で、日本教ともいえる共通するところは、先祖を崇拝することだと思いますが、特に親孝行の宗教である本教黒住教において、この崇祖の心の大切なことを強く教えられた四年間でした。実にこの御祭りは、教祖神と霊様方とのご神縁を改めて結ぶ祈りのときであるとともに、霊様方を人生の先輩として崇(あが)め敬う御祭りでありました。
ところで、今年は節目の年にふさわしく副教主を先頭に様々な海外活動がありましたが、中でも八月五日、オーストラリア・カウラにおける日本人戦没者慰霊祭は、大きな意味があり深く考えさせられる御祭りでありました。
本誌をお読み下さっている方はすでにご存知だと思いますが、二十七年前の昭和五十二年の暮れ、オーストラリアの柔道青少年少女チームが岡山にやって来て、霊地大元の旧の大教殿を武道館に改装したばかりの道場で岡山の若者たちとの試合を行って以来、相互の交流が今に続いていますが、これが機縁となって知った“カウラの戦い”でした。
シドニーから三五〇キロ ほど内陸に入ったカウラの町には、第二次世界大戦中、連合国側に捕えられたドイツやイタリア兵の収容所があり、それと並んだ日本兵の収容所には千余名の日本軍人が収容されていました。
終戦一年前の昭和十九年八月五日未明、それまで秘かに議論を重ねてきた日本軍人の皆さんは、トイレットペーパーを投票用紙にした投票の結果、戦うべしが八十パーセントを超えたゆえをもって、武器らしい武器もないまま殆(ほとん)どの人が食事用のナイフとフォークを武器に監視のオーストラリア兵との戦いに挑み、その夜だけでも二百三十余名が戦死、オーストラリア兵四名も帰らぬ人となったのでした。
今日の我々からしますと想像もつかない行動ですが、当時の日本軍人には戦陣訓の「生キテ虜囚(りょしゅう)ノ辱(はずかしめ)ヲ受ケズ、死シテ罪禍(ざいか)ノ汚名(おめい)ヲ残スコト勿(なか)レ」がそれぞれの心の中に生きていたからともいわれますし、また仲間たちが死に絶え今も戦っているのに、収容所でのうのうとしていてよいものかとの忸怩(じくじ)たるものもあったからではないかとも推察されます。隣接する収容所のドイツ兵やイタリア兵と全く違って、まさに“自決”“自死”ともいえる戦いに挑んだのでした。
二十年前の昭和五十九年、岡山の柔道少年少女チームが初めてオーストラリアに行きましたときに、本教教師が斎主としてカウラでの慰霊祭を執り行い、その後も柔道チームの遠征のたびに御祭りをつとめさせていただいていました。そういう中で、平成八年、私もカウラを訪れ、慰霊祭とともに、僭越(せんえつ)ながら日本に還(かえ)りえてない英霊があるならばお供(とも)しますと「カウラ戦没者之霊主」と墨書した白木の御霊代(みたましろ)を持参してつとめてまいりました。(詳しくは本誌平成八年十月号を参照下さい)
カウラの日本人墓地に入ってまず驚いたのは、聞いてはいましたが、実によく手入れの行き届いた緑の芝生に整然と並ぶ墓碑でした。そこに、オーストラリア側が日本兵をどのように見ていたかが分かるような気がしました。
聞けば、日本兵の皆さんはオーストラリア兵から信用も厚く、近隣の一般人とも交流があり、農繁期には収容所近くの農家の手伝いにも行っていたとか。しかも今に収容所脱走とか、暴動とか言われるこの戦いですが、生き残った人たちには、その後、何の咎(とが)めもなく、一年後の八月十五日に終戦を迎えるや、カウラの日本兵は他の国のどこの収容所や抑留地(よくりゅうち)よりも早く日本に帰還していることなど、オーストラリア側の好意は随所で見せられ聞かされました。と言って、戦時中はもとより戦後もオーストラリアの人々の日本人観は決して良好なものではなく、むしろ悪感情を持つ人の方が多かったようです。それなのに、なぜ、彼らはカウラの日本軍人に対してはこのような好意ある行動をとったのだろうかと、今の時代に生きる私の中で判然としないままに時が過ぎていました。
このたびの、副教主をはじめとする本教の皆さん方と諸宗教者とによるカウラ六十年の合同慰霊祭には、岡山に本社のある山陽放送からテレビのスタッフが同行取材してくれて、それは後日、特別番組として放映されました。その中に、カウラで生き残ったかつての兵士三名の方が日本から参列参拝していて、そのお一人が右手の指をそろえて自らの額右に当てて、いわゆる敬礼をしていらっしゃる映像がありました。その姿を拝見したとき、私の中でもやもやしていたものが消えていくようなさわやかな感動が広がり、続いてわが身を恥じるような思いにかられました。
わが心に強く迫ってきたことは、あのカウラの日本軍人の多くには、命を捨てても守らなければならぬものがあった、いや、命を捨てることによってこそ生き続けると信じた大切な尊いことがあったのだということでした。それにしましても、そこに至るまでの迷い、苦しみ、その苦痛たるものはいかばかりであったかとしみじみ思い、それだけにそれを乗り越えた千人に余る人たちの意志に改めて頭が下がりました。同時に、敬礼する元兵士はその意志にこそ敬礼されていたのだと確信しました。しかもその精神を理解し高く評価したオーストラリア兵なればこそ、一連の好意あふれる行動をとったということが分かりました。
こうした戦死者はもとよりわが先祖先輩方の生き方、さらにその精神について、後に生きる者が、今のこの時に立っての視点でうかつなことを思ってはならぬと自戒もしました。同時に、前後四年間、先祖先輩への祈りを捧げてきた各教会所における教祖神百五十年大祭の締めくくり、さらに記念大祝祭の年にふさわしいカウラ六十年慰霊祭であったと、そのご神慮のほどに改めて感じ入りました。