祈り
平成21年11月号掲載
来る11月12日、政府主催による
天皇陛下御在位満20年記念式典が東京の国立劇場において、天皇皇后両陛下ご臨席のもとに挙行されます。教主様には、鳩山由紀夫首相から正式のご案内状が届きました。
なお、同日東京で執り行われる、天皇陛下御即位20年奉祝国民祭典に際し、奉祝委員会から、教主様に「奉祝文」の依頼がありました。本号はその御文と、幡掛正浩(せいこう)師詩碑についての御文を掲載します。(編集部)
祈りの天皇陛下、皇后陛下
皇后陛下が皇太子妃であられたとき、「皇室は祈りでありたい」と仰せになって、その祈りの最たるものとして元寇(げんこう)の役(えき)における亀山天皇の御祈りと、混迷を深めた江戸時代末期の孝明天皇の御祈りを挙げられたそうです。このことを、かつてある先輩から教えられて、私は心底感動いたしました。
天皇皇后両陛下の祈りの御日々、この御祈りを象徴するような御姿を、先年訪ねられたサイパン島のいわゆるバンザイ岬に、私たち国民は拝み奉りました。そこには、私ども世にいう宗教者の祈りをはるかに超えた清(すが)しくも気高いものが満ちていました。テレビに映し出される、頭(こうべ)を深く垂れて祈り続けられる両陛下に手を合わせながら、多くの国民が共に英霊のご平安を祈り、同時に、天皇陛下、皇后陛下を戴(いただ)く日本国民の一人としてある自身の幸せをかみしめたことでした。
その昔、明治天皇は、ご幼少の江戸末期、御父君孝明天皇の御身を焦がすような日々の御祈り、就中(なかんずく)、蛤(はまぐり)御門の変のときの御祈りも共にされていたと伺ったことがあります。それだけに、多くの御製(ぎょせい)に込められた敬神崇祖の御心は格別のものを感じます。
とりわけ、終戦直後の昭和20年9月27日、先帝昭和天皇が連合国最高司令長官D・マッカーサー元帥に御会見のときの御言動は、まさに祈りの権化といえましょう。マッカーサーをして“我、神を見たり”と言わしめたのも、すべて祈りから生まれる大御心のなせるものと拝察します。このときに始まると申しても過言でないと思いますが、昭和天皇の全国御巡幸、その中で唯(ただ)ひとつ叶(かな)えられなかった沖縄県への御幸(みゆき)。御父君先帝の御心そのままに、沖縄に捧(ささ)げ続けられる祈りと熱き御心の今上(きんじょう)陛下皇后陛下に、どれほど多くの国民が心清められていることでありましょう。それは、亀山天皇、孝明天皇と全く軌を一(いつ)にする大御心と拝します。
このように、大御心の尊き有り難きことに思いを致すとき、改めて伊勢皇大神宮のご存在が大きく強く迫ってまいります。
申し上げるまでもないことですが、平成25年には、第62回の式年遷宮が斎行されますお伊勢様です。
天皇陛下、一聖一代の大嘗祭(だいじょうさい)という祈りの極致を、伊勢の皇大神宮に捧げられるときに始まる、天照坐皇(あまてらしますすめ)大御神と御同徳御同座の祈りの御日々こそ、この20年間貫かれてきたまさに無窮の大御心と確信します。
改めて、
天皇陛下、皇后陛下の御聖寿の萬歳(ばんざい)と皇室の御弥栄を心よりお祈り申し上げます。
幡掛正浩先生筆の詩碑除幕
かつて比叡山で開かれた宗教者の会議で、ある学者がわが国の国柄(くにがら)について非難めいたことを述べたとき、舌鋒(ぜっぽう)鋭く迫った方がありました。その一言ひとことには強くも熱いものが漲(みなぎ)り、その論理には誰(だれ)も口を挟むことのできないものがありました。この方の随行として来ていた人が私の学生時代の後輩でしたので、早速紹介してもらいました。この方が幡掛正浩先生でした。すでに伊勢神宮に奉職して久しい先生であり、また国学の権威として先生に尊崇の念を寄せる人も次々とありました。爾来(じらい)、大学の先輩後輩ということも手伝って親しくしていただき、それより毎年新春の私の参宮には、先生にお目にかかるという楽しみが加わりました。
本教に対して先生の御心の中に大きな動きが生まれたのは、昭和55年秋の教祖神ご降誕二百年大祝祭の時だったと思います。伊勢神宮の時の大宮司二條弼基(にじょうたねもと)様ご夫妻の随行として参拝した先生は、大教殿を埋め尽くしたお道づれが心をひとつに唱和して祈った。
謹みて天照大御神の御開運を祈り奉る
の、いわゆる御開運の祈りに心底感動されたようです。この日を境に一層本教に寄せる御心は強くなり、神宮少宮司としてつとめた第61回式年遷宮の準備を終えるや、ご遷宮の本祭典を前に後進に道を譲り、自ら申し出て本教の学事顧問に就任して、陰に日向(ひなた)にお力添え下さるようになりました。
そうしたある日、御自らの信条にしている漢詩を石碑にしたい思いをもらされたものですから、神道山・大教殿の基壇石と同じ四国石鎚山に連なる青滝山からの安山岩をひとつ選んでいただきました。
その名も「不良大学」と先生ご命名の会が発足し、各分野の錚々(そうそう)たる方が多数伊勢に集ったのは平成11年1月でした。先生の御宅の前に立つ詩碑の除幕式が行われ、続いて不良大学第1回総会が開かれました。その時の先生を慕う皆さんの熱き思いは忘れられません。
その石碑には、今年のNHK大河ドラマ「天地人」で有名になった直江兼続の詩文が、先生の御筆によって刻されています。
春雁似予 予雁似 洛陽城裏 背花帰
【春雁(しゅんがん)われに似て われ雁に似たり 洛陽(らくよう)城裏 花に背(そむ)いて帰る】
武人であり文人でもあった兼続が、政治的にも文化的にも中心の京の都を離れて忠義のために北陸の上杉家に帰って行く心境を詠(よ)んだものです。それは、幡掛先生が、昭和20年8月15日の天皇陛下の御詔勅に関わるような政府の中枢にあった身にもかかわらず、戦後、家代々の福岡県の神社に奉仕のために帰郷したときの心境、さらに式年遷宮の本祭典を前に身を(ひ)いたことなど、この兼続の詩に御心を託されたように伺うことです。それはまた、吉川英治の詠んだ
菊づくり菊見盛りは陰の人
そのままに、世の中の捨て石になることこそ人の道とする先生ならではの美学、人生哲学の吐露ではないかと拝察します。
まことに有り難いことに、先生ご逝去3年の今年、ご長男大輔氏のご配慮でこの詩碑は大教殿東の広場に移築されました。
去る10月4日に開かれました除幕式に参列したご息女の幡掛節子女史は、その思いを綴(つづ)った一文を参列者に配られましたが、その中に次のような一条がありました。
「父正浩は、地位や身分、金銭を追い求めた人ではありませんでした。結果として神宮少宮司を拝命していますが、自分から執着していません。“西郷南洲遺訓”の“命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、しまつに困るもの也。此のしまつに困る人ならでは、艱難(かんなん)を共にして、国家の大業はなし得られぬなり。……”を、地でゆく人でした」
古来、この親にしてこの子ありと申しますが、ご令息の幡掛大輔氏は、この春に退いた(株)クボタの社長時代、その昔に会社のアスベストが多くの人々に甚大な被害を及ぼしていたことをいち早く認め、莫大(ばくだい)な賠償金をもって被害者とその遺族に謝罪されました。その決断と真しな姿勢には大方の人々が感嘆し、私たちはさすが幡掛先生のご令息と感服したことでした。