“心なおし”“病なおし”(下) ─私の教わってきたもの─

平成17年3月号掲載  先月号に引き続き、教主様が昨年、岡山市医師会の会報誌に寄稿された「“心なおし”“病なおし”」の後半を掲載いたします。
 “下腹を養う”ことの大事を改めてお説き下さっていますので、しっかりと拝読しておかげをいただきましょう。 (編集部)


 平澤、池見の両先生が教えて下さったものは私の中で次第に脹(ふく)らんで来るとともに、類は友を呼ぶがごとく、両先生の流れを汲(く)む人、また生命科学に専心する人などから次々と貴重な教えを受けてきました。
 今日、免疫力という言葉は流行語にもなっているようですが、これらの人たちが教えて下さるのは、人間天与の“治す力”は心に大きく依存していること、しかも身体にはそういう働きを司(つかさど)る部位があるといって、まず初めに教わったのは額の奥にあるといわれる“松果体(しょうかたい)”の働きでした。このことを聞いたとき思い浮かんだのは、仏像の額の丸い印でした。また“胸腺(きょうせん)”や“第二頸椎(けいつい)”にもその働きがあることを知らされ、わが国のはるかなる先人が勾玉(まがたま)を胸につるして今日のネックレスのようにしていたのも、それは単なる飾身具にとどまらず、そういう大切なところを守るためのものではなかったかと思いは巡りました。そして、宗教の多くがその祈りに際して胸に手を合わせるのも、むべなるかなとの思いも抱きました。さらに、免疫力のセンターともいうべき働きが小腸にあるということを教えられるに及んで、成る程との感を一層強くしました。ひとつには、胃がんをはじめ大腸がん、直腸がんなどは日常しばしば耳にすることですが、小腸がんというのは余り聞いたことがないものですから、やはり小腸は神秘の器官なのかなと感じました。
 加えて、宗教の世界で重要視する心の中の心ともいうべき魂、その主要な働きは生命力といっても過言ではないと思いますが、その主たる座は下腹(したはら)にあると私どもはみているからです。毎朝の“日拝”において中心をなすのは、旭日を飲み込む思いで、旭光、朝の空気を飲み込んで下腹に納めるときです。宗忠教祖自身が日頃実践していたそのままが「ご陽気をいただきて下腹に納め天地とともに気を養い…」との一条に残されています。どの宗教にもある祈りの詞(ことば)も、下腹からの声が出だして本物となりますし、座禅などはまさしく下腹を養うことに力点が置かれているものと拝察しています。
 宗忠の弟子の一人は、
 「起きがけと寝がけと腹を二百ずつさすり下して御魂(みたま)鎮めよ」
と詠(よ)んでいますが、これは“太っ腹な”“腹の座った”“腹のきれいな”人間づくりと同時に、心身の健康法として努めてきた中に生まれた歌だといわれています。
 今日の時代、魂の問題は等閑(とうかん)に付され無関心な人が大多数でしょうが、それだけに歪(ゆが)められた形で喧伝(けんでん)される場合も多く、それがこの問題から人々をますます遠ざけているように見受けられます。確かに、なかなか自覚しがたい働きでしょうが、私自身いつも自らにいい聞かせることがあります。それは“わが身の奥深いところに大自然と直結した魂が働いている。この働きを十全にあらしめるように努めていこう”ということです。そのための様々な務めを重ねてきて、もし魂が無かったとしても何も失うものはない…ということです。
 実は、これは洋の東西の先哲(せんてつ)の言動に倣(なら)ったもので、彼らは概略次のように語っています。「人間、死をもって終わりとするか、新たな出発とするか。自分は新たな出発に賭(か)けようと思う。そして、死がよりよき出発につながるよう、心して月日を重ねたいと思う。死を迎えて、もしそれが全ての終わりだったとしても何も失うものはない。しかし、死は全ての終わりの時として生きてきて、それが新たな出発であったならば取り返しのつかないことになる」と。

 宗教という宗教はその信仰生活の基本に「祈りと奉仕」を置いているといえますが、実に祈りは、神とか仏とか表現は異なっても、ある生命科学の学者のいわれるサムシング・グレート、すなわち自然の大生命体からわが魂への“いのちの充電”といえましょう。それは宗忠が「祈りは日乗り」と説くところでもあります。また、祈りのひとつの側面である「祓い」について「祓いは神道の首教」ともいって、昔から神道では“罪けがれを祓い清める”ことを務めます。罪はつみ重なるからツミであり、けがれは気が枯れるところからキガレ=ケガレであるわけです。従って「腹を立て物を苦にするをけがれの第一とする」との忠告も、心という魂の器を汚しゆがめることはわが本体への最たる冒涜(ぼうとく)であるとするからです。今日的にいうならば、いわゆるストレスが健全な生命活動を阻害するということでしょう。
 次に、宗忠の奉仕に関する基本的な考えですが、「誠はまることにてすぐに一心一体」と書き残しています。人のまごころの発露である他を思いやる行為は、まさに“情けは人のためならず”で、“まること”に循環してわが魂への栄養源であるとともに、人と人とが心通い合い、心結ばれる原動力であると説くのです。奉仕という、神仏に仕え奉るがごとく、他に、人に、まごころを尽くすことは宗教に共通する規範ですが、多くの宗教教団にあっては、奉仕を人の本体たる魂を養うための重要な「行」としているといえます。
 去る五月十八日(平成十六年)、八十四歳の誕生日を迎えられたポーランド生まれのローマ法王ヨハネ・パウロ2世は、若い頃の著書「行為的人格」(THE ACTING PERSON)の中で、
 「人間は自己をおしみなく他者に与えつくすことによって、最も完全な自己となり、人格としてのあり方を実現する」
といっています。
 また天台宗の伝教大師最澄上人は、
 「悪事を己れにむかえ好事を他に与え、己れを忘れて他を利するは慈悲の極みなり」
と書いて、有名な「忘己利他」の教えを残しています。
 さらに浄土真宗の宗祖親鸞上人は、
 「自利利他円満」
と説き、自他ともに生き栄える道を示しました。
 今日、自己中心的な生き方が蔓延(まんえん)している世の中なればこそ、人は、他のため、人のために生きて初めて人となり、それが真に生きることになるということを、身をもって示すことの大事を痛感します。私は患者のために献身される“お医者様”こそ、今日の世の鑑(かがみ)たりうる立場の人だと信じますし、私ども宗教者も遅れることなきよう研鑽(けんさん)を積み、自己の修行でもある祈りと奉仕に努めねばと改めて思います。(完)