黒住教の本部は岡山市北区尾上の神道山にあります。岡山市街地からはるか瀬戸内海を見渡すことができる神道山は、春は桜、秋は紅葉が辺り一面に広がり、季節折々で彩りを変える自然に恵まれた名所としても有名です。自然に囲まれながら瀬戸内海の海原をのぞむ眺望は、神道山の見所となっています。頂上には日拝を行うための「日拝所」が設けられており、毎朝この場所で教主を先達に、日の出を迎え拝む「日拝式」が日々欠かさず執り行われています。この神道山を中心とする境内地約30万平方メートル(10万坪)の丘陵地には、本部神殿である「大教殿」、教祖神・宗忠をはじめとする代々の教主の墓や、道づれ(信者)の分骨墓である「お道づれ生族の墓」のある「
毎日の神前への供え物である「
他には、教団の月刊機関誌「日新」の編集および書籍発行・販売を担当する「日新社」をはじめ、黒住教教典の原典である教祖神が書き残した短歌や手紙、様々な陶芸作品、絵画などを陳列し、会議場ホールも併せ持つ「宝物館・まることセンター」、受付と売店のある「
昭和49年(1974年)の大教殿神道山遷座に際し、「農家を基本とした建築を・・・」と建築設計家・浦辺鎮太郎氏に依頼しました。教場は300畳のたたみ敷きで、祭壇には「天照大御神」、「八百萬神」、「教祖宗忠神」を祀っています。大教殿御本殿は伊勢神宮内から下賜された内宮の古材を使用しており、大教殿の足元は、愛媛県の石鎚山連峰から運ばれた安山岩が基壇石として使われています。大屋根は宮城県産出の玄昌石でおおわれ、その上には備前焼作家で岡山県無形文化財保持者であった故藤原建氏制作献納の備前焼で千木鰹木棟瓦が設えられています。
教祖神・宗忠生誕の地であり立教の地である大元は岡山市北区上中野にあります。立教以来160年間、黒住教の教団本部でしたが、昭和49年(1974年)により壮大な日の出を求めて現在の神道山に遷座しました。 今日では、明治18年(1885年)に教祖生誕の場所に鎮座した宗忠神社を中心に、岡山市民の氏神様的な神域として多くの人々の信仰を集めています。神域内には、教祖の最晩年に建てられ神殿兼住宅であった「教祖記念館」、神道山に遷座するまで大教殿であった「黒住教武道館(生々館道場)」などがあります。
宗忠神社の主な祭りは神道山とほぼ同様ですが、毎年4月に黒住教最大行事の「宗忠神社御神幸」が斎行されます。これは宗忠神社鎮座の翌年である明治19年(1886年)に始まり、戦前や戦時中は途絶えていたものの、戦後の昭和27年(1952年)に復活し、それ以来開催され続けている祭りです。この祭りは、教祖の御神体を奉斎した“
教祖記念館は、嘉永元年(1848年)に建築された建物です。教祖は記念館建築に際して、信者の代表者に「できるだけ質素に」と特に要望しています。本教第一号の「大教殿」ともいえるこの建物では、教祖神在世中、2の日(2日・12日・22日)と7の日(7日・17日・27日)の月6回、「御会日(ごかいじつ)」という名のもとに教祖神直々の祈りと説教が行われました。この場では、武士といえども刀を付けては神前に進むことはできず、身分の差別なくまさに人間平等の精神が貫かれていました。なお、この教祖記念館内の御居間こそ、嘉永3年(1850年)2月25日に教祖神が昇天した場所であります。
江戸時代最末期の文久2年(1862年)、京都市左京区の吉田山の南端に宗忠神社が鎮座しました。宗忠神社は、時の帝・孝明天皇から「宗忠大明神」の神号を賜り、吉田神社からその東南の高台を提供されて建立された神社です。その後宗忠神社は、孝明天皇の仰せ出された唯一の勅願所(天皇陛下が国家国民の平安を祈る神社・仏閣)に定められました。元治元年(1864年)の「