平成18年という年
平成18年12月号掲載
今年平成18年、2006年は、いわゆる“御定書(おさだめがき)”が制定されて教団成立なって160年、大明神号下賜(かし)150年、さらに別派独立130年という節目の年でありました。
弘化三年(1846)4月、それまで自然発生的に教祖神の下(もと)に参り集まっていたお道づれの中から、士農工商の区別なく九人の人々が選ばれて“門弟行司”となって教団規約ともいうべき“御定書”を制定し、宗教教団としての形が整えられたのでした。
実は、その年正月には江戸(東京)で大火があり、それは弘化元年の江戸城本丸焼失、二年の正月、三月の江戸大火に続くものでしたし、琉球(沖縄)にはフランス次いでイギリスの船が来航し、さらに三年には仁孝天皇が崩御になり、アメリカ船が浦賀にやって来るなど、内外ともに騒々しく、まさに内憂外患の兆(きざし)が見え始めた頃でした。
御定書が制定される前の3月8日には、奇跡的なご神徳が現れました。
教祖神がお乗りの船が児島湾の小串(こぐし)沖を航行中、突然に襲って来た暴風雨で転覆しそうになりました。その時、教祖神は
波風をいかで鎮めん海津神(わだつかみ)
天(あま)つ日を知る人の乗りしに
と詠(よ)んで海神、風神を叱(しか)りつけられるや、たちどころに暴風雨は鎮まったというおかげをいただかれたのです。
大御神ご一体のまさに“ご同徳ご同座”の教祖神ながら、常日ごろはまことにご謙虚であられましたが、このいざというときに烈々たる“御活物(おんいきもの)”が噴き出るように現れ出(い)でて生まれた、実に大きなご神徳でした。
その10日後の3月18日、今は岡山市内の路面電車の始発駅がある東山の山上にご鎮座の玉井宮で、お参りの皆様を前にこれまた烈々たる火の出るようなお説教がなされています。
「…この左京宗忠は、これよりは心魂を甲冑(かっちゅう・よろいかぶと)に固め、惑乱せんとする天下の人心を鎮定し、天照大御神のご神慮を安んじ奉(たてまつ)らん…」。伝えられるお説教の要旨です。しかもその玉井宮は、はるか昔は児島半島の小串村米崎に鎮座の御神体を東山にご遷座申し上げた御社とのことですから、改めて頭が下がります。
とにかく、教祖神ご自身にまるで潮が満ちて来るように大御神様の御神威がみちみちた中で、しかもこのような時代背景の中での教団成立でした。
この4年後の嘉永三年(1850)2月25日、まさに神上がられた教祖神のご昇天を機に、高弟方七人の大布教が展開され、いよいよ教団は確固たるものになっていきました。
御定書が制定されて教団成立なって10年後の安政三年(1856)3月8日、奇しくも“小串沖ご難船”と同じ日、当時の先輩が身をふるわせ涙して歓喜した「宗忠大明神」の神号が下賜されました。
明治時代になってやめられたいくつかの制度がありますが、天皇陛下による神号の下賜もそのひとつでした。神号には大明神号を最高に、明神、霊社、霊神の四段階があり、古くからのあつい信仰を集めた神々をはじめ、生前、徳高く公に尽くした方に神号が授けられましたが、ご昇天6年にして神号が、しかも大明神号が下賜されるということは前代未聞のことでした。そこには、京都布教に邁進(まいしん)した赤木高弟を中心とした高弟方の血のにじむような布教活動、そして、ついには時の関白九條尚忠(ひさただ)公のご息女で、すでに孝明天皇の御后(おきさき)であられた夙子(あさこ)様が大病のおかげをいただかれてご入信、さらに九條関白がご自身、また最後の関白としてのつとめを全うされた二條齋敬(なりゆき)公等、公卿(くぎょう)方が入信されたことも大きな力となったでありましょう。
まずは「宗忠大明神」を斎(いつ)き祀(まつ)る御社の建築をと、赤木高弟をはじめ先輩方はつとめられ、紆余曲折(うよきょくせつ)の末、今の京都、吉田山神楽岡の地にご鎮座になったのは文久二年(1862)4月でありました。それは、当時、全国の神社を束(たば)ねる今日の神社本庁のような立場にあった吉田神社が、その境内地で東南の高台を提供して下さってできたことでした。
ご鎮座2年後の元治元年(1864)7月19日、風雲急を告げる江戸時代最末期の世相を象徴する事件が起きました。人々が勤皇(きんのう)と佐幕(さばく)、開国と攘夷(じょうい)など様々な考え生き方がぶつかり合う中で起きた“蛤御門(はまぐりごもん)の変(へん)”です。今も京都御所の西門のひとつである蛤御門の辺りで、相反する人たちの争いはいわば内戦となって陛下の御身も危ないほどの激しさでした。時の関白二條公が陛下のご動座を比叡山にと進言申し上げたとき、孝明天皇は「宗忠大明神のご神意はいかに」とのお言葉で、はっと我に返った二條関白は、二條家に仕える櫛田(くしだ)左近将監を神楽岡に走らせました。宗忠神社で祈り続けた赤木高弟からは「主上、ご動座ご無用」の奉答で、いよいよ陛下は御所を動かれなかったと伝えられています。
ある高名な歴史家が「蛤御門の変のとき、用意された比叡山に孝明天皇はなぜかご動座されなかった。歴史に“もし”の一語は禁句だが、もしあのとき孝明天皇が動いておられたら、京の街はかつての応仁の乱のように火の海となり、それは日本の周辺にやって来ていた西欧の列強のつけ入るところとなり、維新の大業もなされなかったであろう」と、大要(たいよう)このようなことを述べられたことがあります。
弘化三年の玉井宮における教祖神の御心は、ここに生きてお働きになっていたのです。
明治維新という歴史にかつてない大業を成し遂げて新しい時代を迎えた明治新政府でしたが、様々な分野で試行錯誤が続いていたようです。宗教界にあっては特に顕著で、国家神道を打ち立てるために数々の厳しい施策が打ち出されました。
若き三代宗篤様は、上京して本教の新政府からの公認を得ることに尽力されるとともに、国家神道の枠組みから離れて自由な布教のできる権利を確保するために、決死の大運動を展開されました。猫の目のように変わる政策、強腰の政府を動かしたのは、32万9000余人の署名と三代様の熱き憂国の御心でした。
姿なき身とはなるとも天地の誠の道のさきがけやせん
この間に詠まれた三代様の御歌です。人の心に直接かかわる宗教を政府があまりに管理統制することは、伝統文化を破壊し、人心を惑わす元になるという、ひとり本教黒住教のために止(とど)まらず、国のために生命を懸けた三代様の烈々たる御心が伝わってくる御歌です。
私は、ここにも玉井宮の教祖神がたしかに生きてお働きになっていたと確信しています。