シンポジウム 永遠の旅立ち

平成18年10月号掲載

過日、(株)いのうえ儀礼文化研究所(倉敷市)の主催による「永遠の旅立ち」というシンポジウムが開催されました。
パネラーとして出席された教主様は、元花園大学学長・龍門寺(姫路市)住職河野太通老師、川崎学園理事長川崎明徳氏、現代美術家高橋秀氏らと語り合われました。
そこでは、「永遠」、「儀礼」、「誠」についてそれぞれの思いが吐露されました。
ここに、教主様のご発言だけを掲載させていただきます。 (編集部)

○まず冒頭に、お礼を申し上げたいと思います。去る五月、私の母が満九十四歳と五カ月余りで、まさに安らかに昇天いたしました。その葬儀、告別式に、井上社長自ら汗を流して下さったわけですが、そこには社長をはじめ皆さま方のまさに誠意と熱意があったこと。これは世に言う遺族であるわれわれにとりましては大変な救いであり、感動でありました。有り難うございました。
 それにしましても私たち子供に寂しさはありますけれども、悲しみというものがないのですね。それは母が生き切ったからだろう、おふくろ、お見事!ということに尽きたわけです。今は、葬儀の一切をお世話下さった皆さまの誠意もさることながら、それをさせたのも母ではなかったかと、そういう思いもしております。
 いわば、いかに死ぬかというのは、いかに生きるかということであって、それを親として如実に子供のわれわれに教えてくれたことは、あらためて母に対する感謝と、また同時に敬いの心が強まったことでありました。
 これは聞きかじりですが、ある女性の文化人類学者が、永遠という時間の感覚、生命の連続ということについて、自ら足を運んで、いろいろな民族を調査したそうです。そうしますと、文明の発達に反比例するかのように時間感覚が短くなる。先祖を思い、子孫に思いをはせる日常が消えてくる。いわば永遠性が欠けてくる。そういう社会になると社会が不安定になって、平和が乱れてくる。反対に、例えば子供のない人は、養子を迎えまでして家を大切にする社会。家を大切にするのは何のためかというと、それはいずれまた、そこに自分が生まれ変わってくるためにも、家という器をしっかりさせなくてはならないと。そのような信仰といいますか、生き方を大切にしてきた民族、集落は、現実の生活も非常に安定してピースフルだったと。そういうことを聞きまして、私はその方に、「ひょっとして先生、これはかつての日本のことじゃないですか」と言いましたら、にこっとして、イエスともノーとも言われませんでした。
 ところで日本人が大切にしてきた、「儀礼」という言葉には「かた」がある。「かた」を伝承し「かた」に命が込められて「かたち」になる。その「ち」は命の「ち」であり、生命的なそういう働きを、日本語では「ち」という言葉で表したようです。知恵の「ち」でもありますし、土地の「ち」でもあり、お乳の「ち」でもあります。ともあれ、その「ち」が込められて本物になる、それはつまるところは、人にあっては真心、誠意であり、熱意であると思います。
○私どもの教祖は、人にあっての大事は心の誠であり、それは大御神の御心だと申しています。生きるということは人の誠と天地の誠をひとつにするいとなみ。そこに「生き通し」という永遠の生命を得る道があります。
 先年、岡山の県北で、ごく近しい年寄りが亡くなりました。いわゆる通夜からお参りしたわけですが、お寺のご住職が来られるのが遅れて、六時からというのが六時半過ぎにようやくおいでになったんですね。その間は皆、遺体を前にして、ひたすらおいでになるのを待っている。それも、私にとってはいい時間でしたが。
 ご住職がお経を上げられ始めて、ほんの二、三分で終わりまして、「どうぞ皆さん、お食事に」と。離れで食事をしながら、ふと気になって座敷のほうをのぞいてみましたら、ご住職が亡くなった方の顔に覆いかぶさるようにして手を合わせて、涙をぽたぽたこぼしながら拝んでおられるのです。口が動いていますから、お経を上げられていたのだと思います。私は夫人をはじめ子供たちを呼んで「見てみろ。これが本当の葬儀だ」と。それは大変感動的な一瞬でしたし、次々入れ代わり立ち代わり、見るというよりもお参りする思いで、廊下のほうから、ご住職と亡くなった方の姿を拝み見ておりました。このときのご住職は、霊の生き通しへのまさに導師でした。
○私は、ご老師が神戸にいらっしゃったときに、お寺で座禅を直接にご指導いただきました。皆さん、先ほど、ご老師のお話で、息を吐いて吸うと言われたでしょう。ニワトリが先か卵が先か。普通、どちらが先かといったら、吸うことだと言う人が多いのですが、吐くから吸えるわけですね。最近は呼吸法が健康にいいということで、テレビでも雑誌でも盛んに取り上げられています。体の健康もさることながら、心の健康、さらには本体の、いわば魂の健康のためにも、正しい呼吸は大事です。
 赤ちゃんが生まれるときは「おぎゃあ」と息を吐いて生まれますね。亡くなるときは、息を引き取るんですね。今もお互い、吐いて吸って、いわばおぎゃあと生まれて、息を引き取る、それを繰り返しているのだと、改めて思います。
○かつて、私の友人の、ある私立の幼稚園が新築をいたしました。ところが、理事長である彼は「これはいかん」と、経済的にはものすごい損失でしたが、直ちに全部つくり直しました。なぜかというと、床はPタイル(=プラスチック系の床材)で、テーブルはデコラ(=メラミン樹脂を用いた化粧板)、湯飲みは子どもが落としても割れないプラスチックで、壁は落書きをしてもすぐ拭けるものでした。それらを全部直して、床は無垢(むく)の板にしました。テーブルも木にしました。湯飲みもプラスチックをやめて、落としたら割れる焼き物にしました。壁は土壁です。いたずらをしたら壊れる、汚れたら取れない。いわば本物に触れさせる。これが教育の一番の土台だと。経済効率一辺倒で、あまりにも無機質なものに囲まれた今日の子供たちに、本物に触れさせることにしました。
 実は、先ほど私も初めて知ったのですが、都会では直葬(じきそう)という名の下に、葬儀をしない人が四十パーセントもいるということ。まったく無機質な世の中になってきたものです。これは同時に、われわれ宗教者に対する大きな挑戦であり、また葬儀葬祭を営む企業にとっても大変な挑戦だと思います。だからこういうフォーラムをなされたのだろうと思いますが。
 つまるところは、いかに本物に接するか。そこでは生きているか、死んでいるかが問題で、生きていればこそ感動がある。心が死んでいたのでは感動はない。今日求められているのは、人の心の誠をいかに引き出すかということではないでしょうか。