地下水のごときご存在(上)
平成19年11月号掲載
昨年平成18年は、本教が国家神道の枠組みから“別派独立”を果たして130年の年に当たり、副教主様が所長をおつとめの東京大教会所において東京開教130年・大教会所ご遷座70年記念祝祭が、12月17日に教主様をお迎えして盛大に斎行されました。
教主様は記念祝祭の御親教において、三代宗篤(むねあつ)様が別派独立のために決死の大運動を展開されたこと、また“昭和天皇の大御心”について紹介され、伊勢神宮と皇室、伊勢神宮と本教、皇室と本教についてご教示になりました。
東京大教会所はこの御親教の要旨を教会所だより「あずまのひもろぎ」(月刊紙)に掲載しましたが、今号と次号の2回にわたり本項「道ごころ」に転載させていただきます。今日、平成25年(2013)の第62回伊勢神宮式年遷宮に“ありがとうございます運動”を通してご奉賛申し上げている真っ只(ただ)中ですが、来る12月は「“ありがとうございます運動”推進月間」です。改めてご奉賛の意義を学び、より一層の誠を捧(ささ)げてまいりましょう。 (編集部)
皆様おめでとうございます。久方ぶりに東京大教会所に上がらせていただきました。はや19年前になりますが、この教会所の新築祝祭の日を思い出します。あの時は大雪でしたね。黒住教ならぬ“白住教”でした。予報ではきょうも非常に寒いとのことで、私も古希ですから風邪が怖うございましてね。厚手の下着とオーバーに身を包んで参りましたが、どうですか、こんなに良いお天気になって……。斎主として皆様方の熱い祈りを背に受けながら、汗をいっぱいかきました。
現在、私どもは平成25年のお伊勢様の式年遷宮に微力ながらも誠を尽くさせていただいておりますが、その最中にきょうの東京開教130年の祝祭を迎えたことを、私は非常に有り難く思っております。
130年前の明治9年(1876)10月23日に、本教は神道黒住派として別派独立を果たしました。明治新政府の試行錯誤の宗教政策に対して、弱冠20代半ばの三代宗篤様が上京して、このままでは本教の宗教としての命を絶たれるということもさることながら、人の心に直接関わる宗教に政府が過度の管理・統制をするのは国を誤らすことになるという思いから、前後6年をかけて獅子奮迅の活躍をした結果の別派独立でした。
そういうことができたのも、それに先立つ14年前の文久2年(1862)に当時の王城の地、京都の吉田山にその名も宗忠神社がご鎮座になり、ときの孝明天皇様から唯一(ゆいいつ)の勅願所(ちょくがんしょ)のご沙汰(さた)をいただいたという背景があってのことと思います。その頃に詠(よ)んだ「姿なき身とはなるとも天地(あめつち)の誠の道の先がけやせん」という歌を読むたびに、私は三代宗篤という方の熱いものが蘇(よみがえ)る思いがします。
そして、まさに別派独立して神道黒住派としての公認を得た直後、いの一番に神道黒住派の出張所を皇居の前に設けました。
実は、勅願所ということもありましょうが、宗忠神社ご鎮座2年後、明治9年からいうと12年前の元治元年(1864)、今の時代のわれわれには歴史上の一事件にしか聞こえませんが、一つ間違うと京の街が「応仁の乱」の時のごとく焼き尽くされたかもしれない「蛤御門(はまぐりごもん)の変」が起こりました。時代は西欧の列強がアジアの国々を植民地化して、残った日本をどこが先に手をつけるか、という頃です。御身を案じて避難を進言する声が高まる中、孝明天皇直々の「宗忠大明神の御神意やいかに…」という勅命によって、櫛田(くしだ)左近将監が当時の二條(にじょう)関白の命を受けて宗忠神社に走りました。「ご動座ご無用」という奉答となり、陛下は頑として宮中に留まられ、それを境にまるで潮が引くように争いが消えていったという、秘話のようなことですが、歴然とした事実があります。そういう国の分かれ道の時に、宗忠神社が大きく御神威を発揮したということは、皇室はもとより、その筋に伝わっているのです。
そのようなことも手伝ったからだと思いますが、別派独立して田舎から出てきた神道黒住派なるものの出張所が、東京市麹町(こうじまち)区内幸町(うちさいわいちょう)1-5、今の帝国ホテルの辺りにできました。そして、その横にまさに隣接して、明治13年に皇大神宮遙拝所ができるのです。
今の東京大神宮の前身です。これもまた今のわれわれには想像もできないことですが、教祖神以来の有形無形にご神縁の深いお伊勢様のご神徳以外には考えられないのであります。 昨年平成18年は、本教が国家神道の枠組みから“別派独立”を果たして130年の年に当たり、副教主様が所長をおつとめの東京大教会所において東京開教130年・大教会所ご遷座70年記念祝祭が、12月17日に教主様をお迎えして盛大に斎行されました。
教主様は記念祝祭の御親教において、三代宗篤(むねあつ)様が別派独立のために決死の大運動を展開されたこと、また“昭和天皇の大御心”について紹介され、伊勢神宮と皇室、伊勢神宮と本教、皇室と本教についてご教示になりました。
東京大教会所はこの御親教の要旨を教会所だより「あずまのひもろぎ」(月刊紙)に掲載しましたが、今号と次号の2回にわたり本項「道ごころ」に転載させていただきます。今日、平成25年(2013)の第62回伊勢神宮式年遷宮に“ありがとうございます運動”を通してご奉賛申し上げている真っ只(ただ)中ですが、来る12月は「“ありがとうございます運動”推進月間」です。改めてご奉賛の意義を学び、より一層の誠を捧(ささ)げてまいりましょう。 (編集部)
皆様おめでとうございます。久方ぶりに東京大教会所に上がらせていただきました。はや19年前になりますが、この教会所の新築祝祭の日を思い出します。あの時は大雪でしたね。黒住教ならぬ“白住教”でした。予報ではきょうも非常に寒いとのことで、私も古希ですから風邪が怖うございましてね。厚手の下着とオーバーに身を包んで参りましたが、どうですか、こんなに良いお天気になって……。斎主として皆様方の熱い祈りを背に受けながら、汗をいっぱいかきました。
現在、私どもは平成25年のお伊勢様の式年遷宮に微力ながらも誠を尽くさせていただいておりますが、その最中にきょうの東京開教130年の祝祭を迎えたことを、私は非常に有り難く思っております。
130年前の明治9年(1876)10月23日に、本教は神道黒住派として別派独立を果たしました。明治新政府の試行錯誤の宗教政策に対して、弱冠20代半ばの三代宗篤様が上京して、このままでは本教の宗教としての命を絶たれるということもさることながら、人の心に直接関わる宗教に政府が過度の管理・統制をするのは国を誤らすことになるという思いから、前後6年をかけて獅子奮迅の活躍をした結果の別派独立でした。
そういうことができたのも、それに先立つ14年前の文久2年(1862)に当時の王城の地、京都の吉田山にその名も宗忠神社がご鎮座になり、ときの孝明天皇様から唯一(ゆいいつ)の勅願所(ちょくがんしょ)のご沙汰(さた)をいただいたという背景があってのことと思います。その頃に詠(よ)んだ「姿なき身とはなるとも天地(あめつち)の誠の道の先がけやせん」という歌を読むたびに、私は三代宗篤という方の熱いものが蘇(よみがえ)る思いがします。
そして、まさに別派独立して神道黒住派としての公認を得た直後、いの一番に神道黒住派の出張所を皇居の前に設けました。
実は、勅願所ということもありましょうが、宗忠神社ご鎮座2年後、明治9年からいうと12年前の元治元年(1864)、今の時代のわれわれには歴史上の一事件にしか聞こえませんが、一つ間違うと京の街が「応仁の乱」の時のごとく焼き尽くされたかもしれない「蛤御門(はまぐりごもん)の変」が起こりました。時代は西欧の列強がアジアの国々を植民地化して、残った日本をどこが先に手をつけるか、という頃です。御身を案じて避難を進言する声が高まる中、孝明天皇直々の「宗忠大明神の御神意やいかに…」という勅命によって、櫛田(くしだ)左近将監が当時の二條(にじょう)関白の命を受けて宗忠神社に走りました。「ご動座ご無用」という奉答となり、陛下は頑として宮中に留まられ、それを境にまるで潮が引くように争いが消えていったという、秘話のようなことですが、歴然とした事実があります。そういう国の分かれ道の時に、宗忠神社が大きく御神威を発揮したということは、皇室はもとより、その筋に伝わっているのです。
そのようなことも手伝ったからだと思いますが、別派独立して田舎から出てきた神道黒住派なるものの出張所が、東京市麹町(こうじまち)区内幸町(うちさいわいちょう)1-5、今の帝国ホテルの辺りにできました。そして、その横にまさに隣接して、明治13年に皇大神宮遙拝所ができるのです。
今の東京大神宮の前身です。これもまた今のわれわれには想像もできないことですが、教祖神以来の有形無形にご神縁の深いお伊勢様のご神徳以外には考えられないのであります。
いずれにしましても、今から130年前、東京大教会所の生まれる元の元となった本教の東京出張所が皇居前にでき、隣接して追いかけるように伊勢皇大神宮遙拝所が設置されるという事実は、今日の私たちに非常に熱くも重いものを突きつけているのであります。
(以下次号)
いずれにしましても、今から130年前、東京大教会所の生まれる元の元となった本教の東京出張所が皇居前にでき、隣接して追いかけるように伊勢皇大神宮遙拝所が設置されるという事実は、今日の私たちに非常に熱くも重いものを突きつけているのであります。
(以下次号)