情愛まこと豊かな教祖神

平成19年10月号掲載

 先年、1人の僧籍にある方が神道山においでになり、大教殿でしばし瞑想(めいそう)ののち「お風呂に入ったような心地にならせていただきました。有り難うございました」と言って帰られました。この一言は、かつて地元岡山のある大学の学長が「神道山は清々しくてしかも暖かい」と言って下さった言葉にも通じるもので、いわゆる傍目八目(おかめはちもく)というのでしょうか、第三者的な立場の人が感じたことだけに、教祖神の御心が神道山に満ちている証(あか)しのように思われ、私たちとしますと嬉(うれ)しく有り難くもあり、また一層の責任も感じたことでした。
 今日のわが国で最も大切にされなくてはならないのは、この心の温かさではないでしょうか。それは親はもとより学校の先生やお世話になった方々への敬愛の念であり、友人に対する友情、また弱い立場の人への温情、惻隠(そくいん)の情です。
 教祖神の他を思いやり、おもんぱかる御心は、生来のものといっても過言でないほどご幼少の頃から顕著なものがありました。孝心篤い、親孝行な方というのは今までも伝えられてきたことですが、その御心の底にはご両親へのまことに強い敬愛の念があったことを見落としてはなりません。
 今の学校に当たる寺子屋のような所での勉強の時でも、最後の授業が終わりに近づくと落ち着きがなくなることがしばしばあったことなど、それは迎えに出て下さる御母上に少しでも早く帰って安心させたいという子供心にも熱い思いのなせることでした。御父上がお年のわりに老(ふ)けていらっしゃるという村の人の声を耳にして、水垢離(みずごり)を取って御父上のご健康を祈られる少年宗忠様など、思い浮かべるだけで胸が熱くなります。
 ご両親の突然のしかも相次ぐご昇天から悲しみの底に沈み、その御墓の前で泣き伏しあまりの悲しみのために気絶までされたことなど、その情の深さに驚嘆します。これが原因で肺結核に倒れられ、それが本教立教の元となるのですから、天の配剤、ご神慮は一方で厳しいものといわざるをえませんが、後に「人情深くして人情に迷うな」と仰(おお)せのところは、その命を懸けたご体験が生んだ尊いご忠告であります。いくら情愛深く、強く細やかであろうとも、それにとらわれて道を誤ってはならぬということで、言葉を変えれば「信仰深くして信仰に迷うな」とのご警告とも伺うべきでありましょう。
 とにかく、愛情豊かなしかも強い憐憫(れんびん)の情は、教祖として立つ方にふさわしいものがありました。
 天命直授(てんめいじきじゅ)と後にいう、御日拝によって神人合一ご一体の神秘のときを得られた直後の「お取り次ぎ」は、その最たるものです。突然、お手伝いの娘さん、ミキさんが腹痛で七転八倒するのを目の当たりにして「おお、かわいそうに……」と、まるで苦しむわが子に対する親の心そのままにお取り次ぎなされたら、たちどころに苦しみが癒(い)えたことなど、まことに尊くも深い御逸話(ごいつわ)です。教祖神の「おお、かわいそうに……」の御心ひとすじに思わず手を当てて息吹(いぶき)をかけられた、ここが大切です。お取り次ぎといわれるこの祈りも、その形式、ご神徳をまさに取り次がせていただくとの厳粛な心もさることながら、この「おお、かわいそうに……」の深い情愛の心を忘れてはなりません。
 お道信仰を重ねて心を養い鍛え、いわゆる強い心を持つことも大切なことですが、だからといってこの情愛の念を失っては正しい信仰とはいえません。教祖神のご在世中、1人の青年が、その母親が亡くなってもお道信仰のおかげで涙を流すこともなかったとの言葉を耳にして、教祖神は慨嘆され「自分の信仰指導は誤っていたのではないか」と極めて強い反省の念を持たれたと伝えられています。
 ハンセン病の患者が、備前の中野(今の霊地大元)に行けば高徳の温情あふれる生き神様がおられるとの噂(うわさ)をたよりに訪ねて来たときも、まるで家出していた息子を迎える親のように迎え入れられ、彼の血膿(ちうみ)が教祖神のお顔につくのも忘れてお取り次ぎして全快に導かれたことなど、そのご一生には次々と情愛あふれる有り難い逸事があります。(日新社刊「教祖様の御逸話」参照)
 中でも、御令室いく様のご昇天のときの教祖神には、驚き、一層の尊祟の念が募ります。
 病の床にあられたいく様のご平安を御神前で祈られていた教祖神への「只今(ただいま)、奥様が…」との知らせに、「うっ」と言われて、一瞬、気を失われた教祖神でした。

 昨日(きぞ)の花きょうの夢とはききつれど今の嵐はうらめしきかな

 その直後の御歌です。およそ「うらめしき」などとの表現は、教祖神には似つかわしくないお言葉です。しかしそれほど深いお悲しみだったのです。  しかし、
 また思い直して一首

 世の花は散らばや散れよ天つちにつきせぬ道の花を咲かせん

と、詠(よ)み残しておられます。教書に残るそのときの一連の御歌です。(御歌194号、195号)
 ご両親のご昇天に気絶してまで嘆き悲しまれ、御令室のご昇天に際しても悲しみのため同じように気を失われながらも、その「生き通し」を祈り確信される教祖神なのです。恐れ入るばかりです。