母の一年祭と義母の昇天
平成19年5月号掲載
昨年の5月9日、享年96をもって昇天しました母千鶴子に続いて、去る3月5日、家内の母田原節子(ときこ)が享年91で息を引きとりました。母と呼んだ2人の人生の大先輩に、改めて敬仰(けいぎょう)の思いが募(つの)るきょうこの頃です。
母は私を頭(かしら)に三男二女を産み育て、先代教主五代様を支え、終戦間もない頃に黒住教婦人会を再結成し、婦人会活動こそ教団の礎とばかりに献身していました。年をとって老衰の名のごとく足から衰え、半年ほど次女の主人が院長をつとめる病院の床に就(つ)いたままの生活でしたが徐々に全身が衰弱していき、大阪から来ていた長女の目の前で、息を引きとったのが分からないほど静かに昇天しました。それは、5月8日、神道山で開催された婦人会総会を見届けたかのような翌9日のことでした。しかも、4日後の5月13日は、五代様33回目の年祭という日でした。
一方、家内の母は岡山市内から新見(にいみ)(岡山県)に嫁ぎ家内をはじめ四女一男の子供に恵まれ、大店(おおだな)の主婦として義父を助け、また市の教育委員長をつとめるなど社会奉仕にも忙しくしながら年を重ねてきていました。今年の正月過ぎ頃から、弱ってきた足のリハビリにと、自宅から程近い施設でお世話になり、朝に夕に訪ねて来る息子夫婦をはじめ娘たち、孫曾(ひ)孫とのひとときを楽しんでいました。ところが3月5日、午前1時には安らかな寝息だったのが、3時には息を引きとっていました。寝乱れたところひとつない実に安らかな、しかも美しい顔もとでした。この日は曾孫の1人である私の次男の息子の誕生日でしたし、その四十九日(しじゅうくにち)の法要の日は義母自身の満90歳の誕生日に当たりました。田原家は、神棚は黒住教で祀(まつ)り仏壇は禅宗という、いわば本教信徒の典型的な家で、翌6日の密葬から7日の告別式まですべてを、見るからに修行を重ねて磨き上げたお人柄のご住職がつとめて下さいました。
この5日の日は主人である義父の命日の3日後で、奇しくも私の親はそれぞれ同じ月の昇天となりました。昇天が同月といえば、三代様ご夫妻は同じ9月、四代様ご夫妻は7月と、いずれも年は異なりますが同じ月に昇天されています。実に、単なる偶然とはいえないものを感じます。
昨年の母のときも、そしてこの度も“ご本人が日を選んで逝(ゆ)かれたような……”という声を何人かの方々から耳にしました。両人とも傍目(はため)には眠ったままの全く意識のない中での昇天でした。一般的には偶然ということになるのでしょう。
実はここにこそ、教祖神御教えの「ご分心」のお働きがあるのです。いわば人の本体たる大御神様の“みわけみたま”(ご分心)は天地と直結していて、自(みずか)らの神上るときを自ら決める、いや、ご分心を通じて大御神様はその方にふさわしいときに昇天させられる、ということを2人の母は身をもって教えてくれたのです。
かつて私の高校時代の親友は、彼がすべて用意してくれた私たちの卒業40年記念の集いの日に亡くなりました。その四十九日は彼の誕生日でした。また、今は本教の教師でもありますある地方政治家は、その娘婿が若くして亡くなった悲しみの中で、この人の四十九日がその誕生日に当たることを知って、娘婿が若い身ながら天寿を全うした証(あかし)として厳粛にしかも有り難く受け止めました。それは、娘ともどもその悲しみを乗り越える大きなきっかけとなりました。
私どもにおけるご分心、世にいう霊(みたま)の働きは、このような神秘なしかもまさに“ありがたい”ことと素直に感動をもって受け入れることが肝要です。しかし、ここから更に一歩踏み出して詮索(せんさく)してたずねることは、えてしてその人生を損ない誤らすいわゆるオカルト的なものになる恐れがあります。ある新しい宗教の教祖の言葉に「霊の問題は子供が古井戸をのぞくようなものだ」とありますが、今日、どんなに多くのしかも有為(ゆうい)の若い人たちが、ここにはまり込んで人生をゆがめていることでしょうか。まさに霊の問題は紙一重なのです。
3月6日、義母の通夜が終わった夜、私は久方ぶりにお会いした義母の弟、叔父からいろいろな貴重な話を聞かせてもらいました。義母の若き頃のこと、両親のこと、古い岡山の町の出来事、さらに叔父が学徒動員で出征したときのことにまで話は及びました。
慶応義塾大学の学生から学徒出陣した叔父は、数少ない生還者の1人ですが、東京の三田(みた)の大学構内の掲示板に書かれていた塾長(学長)小泉信三先生の訓辞について熱っぽく語り、後日その写真を届けてくれました。
そこには次のようにあります。
告
塾生諸君徴兵検査の為め帰郷の際は心して父母の膝下(しっか)に事(つか)へ他日出征して決戦に臨むに当り心に遺憾とするところなからんことを期せられたし又検査終了帰塾の後は再び精励して学事に力(つと)め以(もっ)てよく入営前学生生活の始終を完(まっと)うせんことを望む
昭和十八年十月十九日 塾長小泉信三(ルビは編集部)
小泉先生御自らの令息がすでに戦死されていた中でのこの一文は、今の私たちにも胸迫るものがあります。
小泉先生は、戦後、請われて今上陛下の若き皇太子時代を薫陶され、その高潔なお人柄は万人の敬うところでした。
それにしましても、葬儀とか年祭は、「法事は孫の正月」ということを聞いたことがありますが、日常は会うこともない親族をはじめ旧知の人に会い、昔の話、先祖、親のことなど尊い話を伺える貴重なときです。それもこれも祀られ祈られる霊様のなさしめることと思うとき、日頃この御祭りの大切さを説いている私自身が現実におかげをいただいた義母の葬儀でありました。