五カ条と御七カ条

平成22年10月号掲載

 立教のときとなる、天命直授(てんめいじきじゅ)という教祖神が大感激の神秘体験を得られるまでの34年間の歳月は、すべてご修行の日々であったと申し上げても過言ではないと思います。
 ご幼少の頃からの熱い親想(おも)いのお心は、青年期に及んで、ご両親に喜んでいただくためには生きて神と崇(あが)められるような人物になることに尽きるとのご立志になり、ご自身に非常に厳しい求道の日々を課せられることとなりました。
 このときに御自らを律するために立てられたのが次の「五カ条」です。

  家内心得の事
一、信心の家に生まれ常に信心なき事
一、己(おの)がまんしんにて人を見下す事
一、人の悪を見て我に悪心を増す事
一、無病の時家業怠りの事
一、誠の道に入り心に誠なき事
 立ち向こう人の心ぞ鏡なり
  己が心をうつしてや見ん
 右の条々誠に恐敷(おそろしき)事也(なり)
 常に相心得修行可致(いたすべき)者也

 教祖として立たれてから、“悟後の修行”とも称(たた)えられる「千日の御参籠(ごさんろう)」を経て完成されたのが今日の「御七カ条」ですが、表現の違いは別として五カ条に新たに加えられているのが、

一、腹を立て物を苦にする事
一、日々有り難き事を取り外す事

の二カ条です。
 これは、生きながら神となろうとご修行中のさ中に、ご両親が相次いでしかも一週間もたたない間に流行病のために亡くなられたことに始まる、ご自身の深いご体験が生んだものです。極めて強い孝心の方なればこそ、その分、お悲しみは深く、その悲しみは悩み苦しみとなり、日々ご両親の墓前に参っては祈りを捧(ささ)げ、時にはあまりの悲しみのために気を失って倒れられ、その上に氷雨が降っていたというようなこともありました。
 この心の深い傷はついに身の病、肺結核となり、一年余り後の文化11年(1814)の正月過ぎには、明日をも知れない重病の床にあられました。
 生きて神になるなど夢のまた夢、胸かきむしり鮮血を吐く中でも心に去来するものは変わらぬご両親への思いでした。こうした折、ふと、物心ついたときからご両親と共に手を合わせてきた、お日の出に最期のお別れを申し上げねばとのお思いが湧(わ)いてきました。
 この御日拝が、ご自身起死回生のおかげを受けられる切っ掛けとなったのです。一人の人間にとって、その幼少の頃の体験がその人の一生にいかに強く関(かか)わってくるものかと、改めて考えさせられます。
 厳寒の中、迎えられたお日の出は、その時の宗忠様にとってご両親の御心そのものでした。真面(まとも)にお日様を拝めず頭(こうべ)を垂れたまま、時が過ぎていきました。それはご両親を前にして、今、息を引き取るやもしれぬずたずたに引き裂かれた身、そして心。親孝行の心とは裏腹にご両親にどれほどご心配を掛けていたことか……の激しい自己叱責(しっせき)と悔悟の念に頭を上げることのできない宗忠様でした。しかし、再び頭を上げられたとき、そのご心中はこのままでは死んでも死にきれぬ、せめて心だけでも少しでもご両親に安んじていただける心に立ち戻らねばとの、新たな決意と祈りになっていきました。
 再び病床に帰られた宗忠様にとって、襲ってくる苦しみは変わらないのですが、新しい思いがふつふつと湧いてきました。長き病の御身ながら、ご夫人のいく様は看護に明け暮れながら家を守り支え、お子様はすくすくとお育ちの日々。このような身近な現実に盲(めしい)になっていたご自分に気付かれると同時に、御心の奥深くから湧き上がる喜びと感謝。そして、何よりも、明日息が絶えるかもしれない御身ながら、息ができ生きている現実。生きていればこそのこの苦しみ。生を強烈に実感されるとともに、湧き上がる生かされている感動、感謝の念。苦しみの中にも流し続けられる感動と感謝の有り難い涙は、まさに身も心も清め切る“御神水”でした。
 この御心はすなわち、早朝の御日拝のときに得られた御心そのものでした。お別れの御日拝は最初の御日拝となり、日々の御日拝はますます“有り難い”祈りのときとなりました。このご体験の積み重ねが、まさに“薄紙をはぐがごとく”に快方に向かう御自らがおかげをいただかれる元となりました。一日一日、一瞬一瞬、この貴重な時を生かされて生きていることの有り難さを強く感得されたのです。
 後に詠(よ)まれた

 有り難きことのみ思え人はただきょうのとうとき今の心の(御文147号歌)

は、まさにこのご体験が生んだ御神詠ですし、教祖神ほど「有り難い」の一言を数多く書き残していらっしゃる方も少ないのではないかと言えるほど、有り難いの心を生涯大切にされました。このように、きょうの尊き有り難き一瞬一刻の積み重ねが、御自らがおかげをいただかれる元になるとともに、天地の親神、いのちの大元たる天照大御神の有り難さに、心底、感じ入られたのです。
 五カ条になくて御七カ条に加わったこれらの二カ条は、御自らのまことに厳しいご修行の体験が生んだものであることが分かります。しかも、「腹を立て物を苦にする事」の条が、信心の大切を説かれた直後の第二条にあることを、私たちはよくよく噛(か)み締めなくてはなりません。
 ちょっとしたお心の動きをも省みて天にお詫わびされた教祖神を思うとき、私たちはもっとわが心の神、ご分心を大切にした日々を目指さねばと改めて心に誓うことです。