立命館京都文化講座における「黒住教と禁裏御所幻の八・一七政変」

平成22年7月号掲載

立命館京都文化講座における「黒住教と禁裏御所幻の八・一七政変」
 NHKの大河ドラマ「龍馬伝」をはじめ、江戸時代から明治にかけての先人方の生き方に光が当てられて、今日、多くの人々の注目が集まっています。
 これは、徳川幕府260余年の体制が崩れていき、さらにわが国の周辺には西洋の列強が迫り来るという危機的な状況の中で、懸命に生きた人々の心を今の世に求める思いが強いからだろうと思います。
 江戸時代末期は、片や佐幕、片や勤皇、その上、開国論と攘夷(じょうい)論が複雑に絡(から)み合う、まさに内憂外患の時代でした。
 このような時代に、教祖神直門の高弟赤木忠春先生方は当時の首都京都に上り、御道布教に専心していました。
 赤木高弟方は、わが国古来の主祭神である皇祖天照大御神は、教祖神の天命直授(てんめいじきじゅ)によって明らかになった、お日の出に現れる生命の本源としての天照大御神であるという、大御神様の真実体を確信しての布教活動を展開していました。具体的には、この大御神様の“わけみたま(ご分心)”をいただくのが本来の人=日止であり、このわが心の神であるご分心と本源である天照大御神とが直結する、すなわち心がありがとうなる(感動と感謝に満ちる)とき、ご分心は十全の働きをして病は治り、物事は整(ととの)い、開運していくというひとすじの道を徹底して「祈り、説き、取り次ぐ」ことを通じて布教していました。
 この赤木高弟が、まさにご神縁を得て九條尚忠(ひさただ)関白のご息女夙子(あさこ)姫にお取り次ぎしてその病が本復、おかげをいただかれたのを機に、九條家の方々の御道信仰が始まりました。すでにその時、夙子様は孝明天皇のお后(きさき)であられたことから、ついには孝明天皇の御前で赤木高弟は御道を講ずるという光栄にも浴しました。この時に賜った御製(ぎょせい)が、

 玉鉾(たまぼこ)の道の御国(みくに)にあらはれて日月(ひつき)とならぶ宗忠の神

でした。この「日月とならぶ」という一条に赤木高弟が何をお説き申し上げたか、また陛下が何に感銘なされたかが分かります。すなわち日月に象徴される天地の大生命、“いのちの本源”たる天照大御神のご神徳の有り難さ、そしてご一体の教祖宗忠神の尊さです。
 「宗忠大明神」の神号を賜り、当時、全国の神社を仕切っていた吉田神社から、その東南の高台の広大な境内地を提供されて神楽岡・宗忠神社はご鎮座なりました。時は、明治維新に先立つ5年前の、文久2年(1862)の春でありました。
 九條家に始まる御道信仰は、九條関白の次の次の関白で関白としては最後となった二條斉敬(なりゆき)公をはじめ、十指に余る公卿(くぎょう)方にも及びました。中でも若き三條實美(さねとみ)公(後の明治の元勲の一人で、その昇天に際し国葬で送られた最初の人)などは、その捧呈(ほうてい)した入信の誓い「神文之事」(神道山・宝物館に展示中)にも見ることができますが、激しいばかりの信仰心を元に難局に処されていたようです。  実は、去る4月24日から6月5日にかけての5回にわたって、京都に大学本部がある立命館大学は、「立命館京都文化講座」という名のもとに、東京キャンパス(東京都千代田区丸の内)において「明治維新と京都」と題して公開講座を開催しました。新進気鋭の学者方による講座の中で、第1回の「桂小五郎と木屋町」と第3回の「坂本龍馬三万キロの旅」にはさまれた第2回に、

 「黒住教と禁裏御所(きんりごしょ)幻の八・一七政変」

という講座が、立命館大学講師の奈良勝司先生のもとに開かれました。
 幸いこの講座に出席していた方から当日の資料をいただき、先生のお話の概要を伺ったのですが、この方の言によれば、
 「黒住教は穏健な神道教団である」、「明治維新の精神的中核をなした」というお話があったとのことでした。
 講師の先生は、私どもも知っている宗教学者や歴史学者による黒住教についての様々(さまざま)な論を紹介しながら、教えの基本的な特色や、年譜を使って教団の歴史を話されたそうです。そして本題につながる京都における本教の働きについて、後進性封建性と先進性近代性の両論を、先行学者の争点を紹介して述べられたようです。
 とりわけ、「幻の八・一七政変」という件(くだり)は、私たちに伝えられているところと違って、孝明天皇のご尊体不良のために攘夷論が幻に終わったように話されたとのことです。従来、幕府が中心となって外敵に立ち向かうべしとの御思いが強かった孝明天皇でしたが、戦うべきではないとのいわば勅命を出されて攘夷論は消えたのでした。
 実は、同じ尊皇であり同じく宗忠大明神をいただかれる立場ながら、九條尚忠元関白、二條斉敬次期関白という年輩者と、三條實美公ら青年公卿との間には確執(かくしつ)があったのです。いわば国内での争いをしている時ではない、朝廷と幕府とが一体となってのいわゆる公武合体して非常時に対処すべしとされる九條、二條様をはじめとする人々に対して、あくまで外国と戦うべしと三條公ら青年公卿等は、攘夷論に終始されていました。文久3年の8月17日から18日にかけて一触即発の激しい論争が繰り広げられ、結局、三條公らは敗れられ、後に“8月18日の政変”と称された攘夷論者の敗退となり、いわゆる“七卿(しちきょう)落ち”と言われる長州(山口県)に追いやられることになったのです。この七卿落ちの警護に当たったのが岡山藩の藩士たちで、それは岡山藩からの当時の教団本部大元に対しての強い圧力ともなったのでした。
 孝明天皇御製の「日月とならぶ宗忠の神」をはじめ、孝明天皇のご養女伏見宮文秀女王の書き残された教祖神御神詠、

 天照らす神のみ心人ごころひとつになれば生き通しなり

さらに、二條斉敬公が染筆して宗忠神社に献納された御神詠、

 かぎりなき天照る神とわが心へだてなければ生き通しなり

に見ることができるように、この方々は、天照大御神の真実体たる天地の大いなるお働きを感得しておられただけに、その心底には高くも広い精神があったのでした。
 奈良先生が「黒住教は明治維新の精神的中核をなした」と言われるのも、この辺りにその元があると思います。と同時に、御神詠、

 世の中はみな丸事(まること)のうちなればともに祈らんもとの心を

 誠ほど世にありがたきものはなし誠一つで四海兄弟(しかいけいてい)

を改めて有り難くいただくことです。