人となるの道・神となるの道(上)

平成23年10月号掲載

 川崎医科大学(倉敷市)の初代救急医学教授として、全国的にも救急医療の先駆けとして活躍された小濱啓次(こはまあきつぐ)先生がこの度、著書「医学的な死とは何か、死をどう迎えるのか」を発刊されることになりました。かねて教主様とじっ懇の故をもって、“死生観”について教主様に一文を依頼して来られました。そこで小濱先生のご了承を得て、本文を今号より三回に分けて転載させていただきます。(編集部)


 過日、一人の青年から黒住教の死生観について尋ねられました。そのときの話を、再録するような形で記させていただくことをご了承下さい。主題は死生観ですが、生死観と申し上げるのが適切ではないかと言いながら話を進めました。

日止(ひと)=人、分心

 私は人の誕生とその人生、そしていずれ迎える死という新たな出発のときを、飛行機の着陸、離陸にたとえて話すものです。着陸したときを誕生のときとしますと、滑走路にたとえる人生で自分自身という機体を養い整え、高純度のガソリンという人徳すなわち人としての真の力を身につけることが真に生きることになると申します。そこに、美事な離陸という死のときを迎えられると思うのです。
 父親と母親の細胞がひとつになって生命は誕生しますが、私が信ずるところは、このひとつになった両親の細胞が受け皿となって“いのち”、私たちにあっては日の出の太陽に顕現されるいのちの源たる天照大御神(あまてらすおおみかみ)のわけみたま=分心(ぶんしん)が鎮まって、生命活動は始まると考えます。ここから“飛行機”は十月十日(とつきとおか)間の着陸態勢に入るわけです。
 黒住教の宗忠教祖は「人は日止(ひとど)まるがゆえの人なり」と申していますが、私はかつて若いとき、出雲(島根県)で“わが家の嫁のお宮さんにひが止まった”と言って孫の誕生を喜ぶ婦人に会いました。“子(の)宮に日が止まる”という言葉でもって人の誕生を表現する日常言葉に、さすが“神々の国出雲”と感銘を深くするとともに“言霊(ことだま)の幸(さき)はう国日本”の原点を見た思いになりました。
 日止まったいのちは、母の胎内の十月十日間、申し上げるまでもなく、へその緒を通じて母体からの栄養を得て成長していきます。さらに、このことは私どもの信ずるところなのですが、へその緒で母体と直結しているように、わけみたま=分心においていのちの本源たる大御神と直結している、それでこそ生命活動はなされている、いわば、いのちの大河の本流はここにあるとするのが私たちの生命観です。
 まさに、生かされて生きているのが私たちのいのちです。日止まって十月十日、生まれ出たいのちは人生という滑走路を走るわけですが、ここはまさに人生道場です。この道場で人は走りながら機体を養い整え、高純度のガソリンを貯(たくわ)えていきます。
 宗忠教祖は、「人となるの道すなわち神となるの道」と言って、人生は人となるための修行の道場で、それは同時に神となるの道であると述べています。
 身体の中に、心という、目には見えませんが確かにある働きがあり、その心の中の心が、心の神ともいうべき分心です。いわば、心は分心の器であり、身体は心の器です。心身を健康に養い保つことは、いのちの本体に対する責任です。
 日本のある宗教で、人は“霊主心従体属”と説かれていますが、ここの“霊”を大御神の分霊(わけみたま)、分心と置き換えれば、まさに言い得て妙です。しかし、いずれも深い相関関係にあることは言をまちません。心身一如、心と身体を一体的に捉えて、身体を鍛えるところに心が鍛えられ、心が健全なところに健全な身体が養われてくるという、まさに“健全な精神は健全な肉体に宿る”ことは、青年期には特に“心得る”べきことです。とりわけ自ら設定した目標に向かってのあくなきチャレンジは、心を鍛え養う絶好の場です。

心を養う

 ここでいう心というひと文字の中に、いわゆる心と分心とを一体的に捉えて、心を養う生き方を大切にしていただきたく思います。
 心はころころと転がるように動くこと、心は目に見えないだけに心に対する“心くばり”はいいかげんになりがちなこと、“心して”いただきたく思います。身体の汚れは洗い、傷や病に際しては治療に“専心”しますが、心の汚れや傷はそのままにしがちです。宗教という宗教で、“浄”“清め”“祓い”が高調されるところです。私たちにありましては、心は心の神、分心の器、“ご座所”ですから、心をゆがめてはならない、傷めてはならない、汚してはならないのであって、もしそうなった場合には直ちに祓いにつとめることが求められます。いわば、ストレスの解放、ストレスを貯(た)めないように“心がけ”ていただきたいのです。
 ただし、身体も負荷をかけて鍛えるところに強靭(きょうじん)になっていくように、心への負荷、すなわち悩み迷い苦しみ悲しむことなども“心構え”がしっかりしていれば、そのマイナスが逆にプラスを生む元になるのが世の常です。人生の荒波ともいえる苦難を乗り越えてきた人の心の豊かさ強さ、そのスケールの大きさは、実に人生道場で鍛えられた人ならではのものがあります。宗忠教祖が「難有有難」と書いて「難有り有り難し」と説くところです。艱難(かんなん)に対しても“これぞ難有り有り難し”と拍手を打って立ち向かってきた人を私は数多く知っています。この人たちの支えとなったのは、同時に、宗忠教祖の 「海あれば山もありつる世の中にせまき心を持つな人々」の歌でもあります。
 ただ、病に倒れたり悲しみの渕(ふち)に沈もうとも、感動すること、感謝すべき事柄を心の中心に据え置くようにつとめるならば、明日は必ず字のごとく明るい日となるでありましょう。
 宗忠教祖が、
「有り難きことのみ思え人はただきょうの尊き今の心の」と、自らの体験から生まれ出た歌で訴えるところです。面白いこと、嬉(うれ)しいことを存分に楽しみ、さらにこの心を“ありがたいなあ”と思わず口をついて出る感動感謝の心に育てていきたいものです。
 宗忠は、
「有り難き。また面白き。嬉しき。とみ。き。をそのう(供・備)ぞ誠なりける」と詠んでいますが、この三喜(みき)(御神酒(おみき)になぞらえている)は分心への大きな栄養です。
 要は、宗忠教祖の次の歌に集約されると思います。
「姿なき心ひとつを養うは賢き人の修行なるらん」(つづく)