人に尽くす喜び
平成23年9月号掲載
岡山県の中央部、吉備高原に広がるその名も吉備中央町に、全国的にも珍しい不登校児のための全寮制の学校、希望学園があります。様々(さまざま)な理由で学校に行くことのできない小中学生の年齢の子供たちのために開設されたこの学園は、昨年創立15周年を迎えました。創立後、間もなく教育後援会という名のもとにいわば応援団ができまして、私はそのお世話をさせてもらって今日に至っています。
昨年の10月、創立15周年を祝う式典が、廃校になった旧の町立中学校校舎の当学園ながら、それなりに装いも美しくして開催されました。石井正弘岡山県知事をはじめ国会議員、県会議員の先生方、また日頃協力を惜しまない地元の方々、特にこの町にある本教下土井教会所の土居義範所長らお道づれの皆さんも駆け付けて下さり、賑(にぎ)やかに諸行事が行われました。あいにくこの日は土砂降りの雨が続き、祝賀の野外パーティーは大変でした。中でも、本教の青年たちが下土井教会所の婦人方と共に作ってくれた“大元鍋”を、各テントに分散した来賓方に召し上がっていただくのは大ごとでした。この運び役を担ってくれたのは、実はこの学園の生徒たちでした。
“大元鍋”の入った器を大事に両手で持って子供たちは、ずぶぬれになりながらも一生懸命つとめてくれました。しかもどの子も、今まで見せたことのないような喜びいっぱいの顔でがんばったのです。先生方も驚き、特に親御さん方は涙して喜んでいらっしゃいました。
日頃、家に閉じこもって外へも出ず、学校にも行かないわが子、親をはじめ人々に何かをしてもらうことはあっても、自分が何かを他のためにするなど全くと言ってもいいほど無かったわが子が、びしょぬれになりながら喜々として人様のために尽くしている姿に感動されたのです。何とかよりよい人間関係の持てる人になってほしい、何か自分のやりたいことを見つけてほしい、そしてそれをやり遂げる人になってほしい……願い続ける親御さんにとって大感激の場面でした。園長先生は、有り難いことに、この時を機に子供たちがとても活発になったと言われていました。
改めて、人は人に尽くして人と成ることを目の当たりにしたことでした。と同時に、一般的に言ってあまりにも自己中心的な生き方に終始する大人たちの世界に窒息状態になっていたのが、この子たちではなかったかと、思いは巡りました。親はもとより大人たちが、もっと心を開いて、人様にお役に立とうとする生き方を重ねるところに、子供たちは心伸び伸びと、すくすくと育っていくのではないかと思いました。
併せて思い起こしましたのは、もう30数年も以前のことです。大教殿が霊地大元から神道山にご遷座なって数年後、大元の旧の大教殿が改修されて武道館として復活した頃のことです。私も四十の手習いだと言って空手道ならぬ“空手形”と称して、空手道の基本の“形”を師範の方に手ほどきを受けて、子供たちと一緒に汗を流していました。
そうしたある日、市中に出ていた私は少し早めに大元に参りましたので、久方ぶりに宗忠神社周辺の道を散歩していましたら、一人の婦人に声を掛けられました。その方の子供、小学2年生のY君が空手を習いに来ているとのことで、誘われるままにその御宅にお邪魔しました。折から仕事を終えて帰っていたご主人と、岡山県北部に住むそのご母堂が作って送ってくれたという“よもぎ団子”を頂戴していたところへ、当のY君が帰って来ました。道場の館長の私がいることに驚き喜んで少々興奮気味のY君に、お母さんは「これはおばあちゃんが作って送って下さったよもぎ団子よ」とそのよもぎの何たるかも話しながら食べさせ、「隣のNちゃん、向かいの0ちゃんにも持って行っておあげ……」と言って、二つ三つのよもぎ団子を紙に包んでY君に持たせました。張り切って飛び出して行ったY君を見やりながら、私はご主人に「奥さんはよい教育をされますね」と申しました。そして、けげんな顔の彼に続いて話したことでした。
「これこそ教育なんです。おばあ様がわざわざ作って送って下さったよもぎ団子。この大切なものを友達に届けているY君。彼のいきいきとした顔が見えるようですね。団子の由来を友達に話し、美味(おい)しいからお上がりと勧めているY君の心は弾んでいますよ。自分が食べて喜ぶ以上に、大きな喜びを彼は今味わっていると思いますよ。大人にとって大切なもの、それを子供に持たせてその友達に差し上げる、いわばおすそ分けですね。そういう場を子供につくる奥さんは素晴らしい……」と申したことです。
この種のことは誰しも経験することですが、私自身が強く感じ、「親ごころは神ごころ」との御教えを改めて実感したのもこの頃でした。
神道山に上がって5年間ほどは、わが家族は大元に居て、私はおつとめを終えて夕方には大元に帰って家族と食事を共にしてまた神道山に上がる、ということを続けていました。その間は、家内もおふくろも私が大変だと思ってくれていたのか、夕食のおかずが私だけ一品多くありました。現副教主の長男はもう中学生でしたからよく分かっていましたが、現宗忠神社宮司の次男は、小学校の低学年でしかも食い意地が張っていまして、夕食の度に私の一品が気になって仕方がない様子でした。ある時、あまりに欲しそうにしていますのでそのお皿を次男に渡しますと、彼はいかにも美味しそうに一気に平らげました。その時に、私の中に何とも言えない感動が湧き上がってきたのです。自分が食べての喜びはなくなっているのですが、息子が喜んで食べていることの喜びでした。それは、食べて美味しいという喜びよりもっと深い所の喜びでした。あらためて自分も親になった……との感慨とともに、人間にとって大切なところを経験できた思いで強く今に残っていることです。
実に、人は人に尽くして人と成るのであり、届け与えて喜ぶ喜びこそ本当の喜びであるわけです。それは、「誠はまること」と御教えになるところで、誠を尽くすところにぐるっと回って帰ってくる喜びこそ、その人の本体たるご分心への最高の栄養なのです。
子供に、そういう体験すなわち、人に喜んでもらう喜び、感動を経験できる場をつくり与える親、大人、年長者でありたいものです。