農業は文化の源・明治の気骨梶谷忠二先生

平成23年7月号掲載

 教主様は、本教とご縁の深い利守酒造(岡山県赤磐市)の“月々便り”「軽部村」に、日本工芸会中国支部顧問の立場で寄稿されました。また、公益信託・梶谷福祉基金の運営委員をつとめられていて、同基金の「20周年記念誌」に運営委員を代表して挨拶(あいさつ)文を寄せられました。
 今号の「道ごころ」には、この二つのご寄稿文を掲載します。(編集部)


農業は文化の源 (「軽部村」)より

 終戦の年の昭和20年に小学校の2年生だった私は、戦争の恐ろしさも岡山大空襲の怖さもあまり分かっていなくて、ただ食べ物のない辛(つら)さだけが残っている戦争体験とも言えぬ体験の持ち主です。まともなお米のご飯にありつけたのは翌年の暮れ近くで、その時の一粒一粒のお米がキラキラ光っていて、一気に食べるのが惜しくて、箸でひと粒ずつ口に運んだのが忘れられません。爾来(じらい)、食事の度に飯茶碗に一粒でもお米が残っていると気になる癖が付いてしまいました。
 こういう私にとって、昨年の9月初めに見た地元紙山陽新聞の夕刊のトップ記事は、ちょっとショックでした。そこには「農業就業者75万減」の大見出しとともに「減少率22 %過去最大」「平均年齢65歳超え」と続いていました。これは農林水産省が発表したこの年の「農林業センサス」によるもので、五年前の調査と比較したものが報じられていました。
 今日わが国の食糧自給率は30数%で、私たちが日常に口にするものの多くが、外国産と言っても過言ではない状況であることは周知の通りです。日本の代表的な食べ物の“てんぷらうどん”にしても、原材料のすべてが外国産と言われて久しいのが現実です。
 私の住まう岡山市の郊外も、かつての広い田んぼが急ピッチで道路となり、商業施設やマンション、一般住宅になっていきました。特に道路工事の時などが顕著なのですが、土を掘り返しての工事を見ていますと、60~70センチほどの土の層は真っ黒でねっとりとしていて、一見しただけで、何世代にもわたって先人が養い育ててきたよく肥えた土であることが分かります。それがまたたく間に干からびてしまいます。そこに出来(でき)た道路を私たちは車で快適に走り、その土地に建てられたスーパーで日常の糧を買い求めて生活しているわけです。
 知人の学者に教えられたことですが、彼が若い頃に留学していたイギリスの大学の恩師は「食糧は戦争よりも、勉学よりも大事だ」と言って、毎日昼食に二時間もかけ、昼過ぎにはワインを飲み始めていたそうです。そして「食べ物のうまい所にはいい美術館がある」と言っていたとのことです。
 事実、食糧の大切さをヨーロッパで最も知っているのはフランス人で、フランスといえば芸術の国だと私たちは思いますが、それを支えているのは農業国フランスだというのです。
 いく度もパリへ行っている友人が、ある時フィンランドから昼間に飛んでパリに行ったとき、窓の外に見たフランスの広大な農地には感動したと言っていたのを思い出します。見事な美しいパッチワークのように大地が耕作されていて、フランスは一大農業国なのがよく分かった、その上に華やかな都パリがあることを実感したと言っていました。
 知人の学者は申します。「芸術は社会の活力と無関係ではない。地に足をつけた農業という基礎を持った社会が、いかに活力を生み出すものか。逆に言えば、ある社会を見て芸術文化が栄える方向へ行っているか衰退に向かっているかで、その社会の生命力が分かる」と。この伝でいくと、わが国で農業といえば米づくりであり、そのお米が生むお酒こそ日本文化芸術の基をなす象徴的な存在でしょう。
 私ども日本工芸会中国支部のメンバーを見ますと、岡山市中をはじめ街中に住まう人もいますが、多くは緑豊かな田園地帯とか古い屋並みの町中、あるいは里山を背にした村落を仕事場にしている作家方です。そしてこの方たちに共通することは、決してぜい沢というのではないのですが、口が肥えているというか食べ物の本当の味が分かっていることです。
 ある備前焼の作家が、昔ながらのかまどで炊いてくれたご飯のおいしかったこと、またある工芸家がつくったベイカやアミの塩辛がお酒によく合ったことなど、さすがだなと感心したことがあります。
 彼らがまたお酒にうるさく、詳しいのもむべなるかなと思うことです。
 つまるところ、人工物という“温室”に閉じこもらず、天地自然とつながった生活の上に真の文化芸術は生まれるということではないでしょうか。



明治の気骨梶谷忠二先生(「20周年記念誌」より)

 30年ほど前のことですが、ある会合で梶谷先生の隣に座った私は、先生のスーツの袖がほころびているのが目に付きそのことを申し上げましたら、先生は「ありがとうございます。何しろ20年近く着ている服なもんで…。でも、下着は毎朝サラを着てくるんです。
歳が歳ですからいつ逝っても恥ずかしくないようにね…。」と言ってほほえまれました。
 この姿勢は先生の一生を貫かれたものでした。ご長男が誕生以来、新年はまず前年の正月に認(したた)めた遺書を破り捨てて新しい遺書を書くのを常とされていました。一日いちにち、一年いちねんが勝負のご一生だったように思われます。この“今日只今(ただいま)”を大切にされる生き方は、私などには明治生まれの方に共通するものと言っても過言ではないように思えていました。
 御歳16の時にパンに出合ってから、パン作り一筋に生きて106歳の長寿を全うされたこと自体が、この精神そのものでした。自らに厳しく、事を処しては潔(いさぎよ)く、その上、弱い立場の人を見ると放っておけない男気の持ち主でした。
 川崎病院の川�祐宣先生が、昭和20年代、いまだ戦争の瓦礫(がれき)の残る中で発心して昭和32年に創設された旭川荘に、いち早く賛同して協力し、障がいを持つ人に少しでも役に立つならと後援会である「旭川荘友の会」もつくり、初代会長として誠意を尽くされた梶谷先生でした。
 いわゆる「木村屋のアンパン」を柱にパン作りで得た財をもって、平成2年、卆寿記念にと一億円を住友信託銀行に寄託されて、この「梶谷福祉基金」は誕生しました。
 これは全国でも稀(まれ)な基金で、この分野における先駆けとなりました。ここには、障がいがあるために生活もその楽しみも狭められている方々に、少しでもお役に立ちたいとの強い思いが込められています。
 多くの方々から信念の人、気骨ある方と崇(あが)められたご生涯でしたが、岡山商工会議所会頭をはじめ数多くの公職に就かれること45年にも及ぶ中で、誰とも言い争いをしたことのない、まさに「真綿の心」の人でもありました。すべてを受け入れてじっくりと話し、良い結果を生み出して来られました。
 この基金は、このようなお人柄の先生が、「受けた恩は決して忘れてはならない。そのご恩を世の中にお返ししてこその人生」を、地で行かれたものです。
 明治33年、1900年に生まれられて、ご昇天の平成18年、2006年までの106年間、まさに3世紀を生きぬかれた梶谷忠二先生に、改めて敬仰(けいぎょう)の思い募るきょうこの頃です。