イギリス滞在中のYさんへ ~大震災ひと月を迎えて~
平成23年5月号掲載
あなたもご承知の東日本大震災からちょうどひと月のきょう4月11日、出張先から帰って来てペンを執っています。まさに未曽有の大地震、そして大津波の襲来、さらに加えて原子力発電所の大事故に伴う災禍と、天災と人災がひとつになった大災害に未(いま)だに日本中が震えているような状況が続いています。競うように発展してきた近代文明の作った“温室”から、瞬時に放り出されたような感さえしています。テレビや新聞などで目の当たりにする大惨事に国民は恐怖におののきながらも、被災した人々のことに思いを馳(は)せ、親子兄弟を失って悲しみ苦しんでいるような気持ちに沈みました。
ひと月たって様々(さまざま)なことが分かってきていますが、心痛み胸うたれていることのひとつは、警察官や消防士の方々の死が数多いことです。また、ある町のその名も防災対策庁舎で津波の襲来をマイクで告げることを止めず、そのまま津波にのまれた娘さんなど同じ立場の人の死です。先の大戦の特攻隊員をはじめ、自らを捨てて国のため家族のために命を捧(ささ)げた方々のことが脳裏をよぎりました。
先の大戦といえば、小学校の2年生の時に終戦を迎えた私ですが、その年の6月29日の未明、岡山の街は多くの日本の街がそうであったようにB29の空爆を受けて火の海となりました。老若を問わず数え切れない人が亡くなり、親を失った子供、子供を失った親、全身に大やけどを負った人など、被災者は後を絶ちませんでした。当時、木造の家屋の多かったわが国の街々は、焼夷(しょうい)弾というすべてを焼き払う爆弾によって焼け野原になり、それはこの度の大津波で家が流されてしまった町や村と同じ情景でした。
市の中心部から少し西に離れた霊地大元は、焼夷弾の破片が落ちてくすぶった程度で大事に至りませんでしたが、宗忠神社の西裏手の民家の多くが焼け失せましたから、空襲がいかに大規模なものであったかが分かります。空襲から一夜が明け、境内の消火も終えて父五代様やおとなたちがひと息ついた頃、被災した人々が押し寄せるように大元にやって来ました。その頃の私たちの住まいで、今は教祖記念館と呼ばれている建物の玄関に、一人の白髪の大柄な人が仁王立ちして流れる涙をぬぐおうともせず、迎え出た父に大声で訴えていた声が今も私の耳の底に残っています。
「管長さん!女房とも、子供とも火の中ではぐれてしまいました。もうだめです・・・・・・」と。
子供の私にも、この空襲がどんなにむごいものかが身に染みた時でした。
大元の大きな建物はすべて避難所になりました。宗忠神社の回廊のここかしこに残る丸いへこみは、避難した人たちがそこに“しちりんこんろ”を置いて火を使った時の名残(なごり)です。それは昭和9年の岡山大洪水の時のものとともに、私たちに天災人災の恐ろしさを今に伝える証でもあります。
ご存じのように、焼き尽くされた岡山はもとより日本の各都市、さらに原爆を落とされた広島長崎も、早くたくましく復興していきました。しかも、それをバネにするかのように旧に倍する勢いで発展したわが国でした。
この度の大災害に際しても、御地イギリスやアメリカをはじめ外国の人々の驚嘆するところですが、被災した人々が人を押しのけようとするでなく、さらには掠奪(りゃくだつ)してでも食べ物をといったところは全く見えず、それどころか、整然と並んで配給の食べ物を受け取っている姿に私たちも胸が熱くなっています。16年前の神戸の時もそうでした。神道山が拠点となって50日余続いた1日5000食の炊き出し奉仕も、奉仕する者皆が皆感動したのは、100人くらいずつ整然と並んで食事を受けとる被災した方々であり、「お代わりをどうぞ」と申しても「それは他(ほか)の人に・・・・・・」と言い、「おおきに(有り難う)。元気でるわ・・・・・・」と御礼を言い続けるこの方たちの一言ひとことでした。
思いますのに、わが国の先祖先人方は、はるか昔から地震津波をはじめ台風とそれに伴う洪水、町や村を焼き尽くす大火、火山の噴火さらに疫病等、様々な大小の災害に遭っては、乗り越え乗り越えて今日の私たちに命をつないでくれました。「困った時はお互いさま」、「明日はわが身」と、助け合い支え合って大難を乗り越えてこられたのです。それはまた現在、日本人がひとつ心になって立ち上がって、被災した人々のために役立とうとしているところに同じ精神を感じるものです。有り難いことにそれは世界的な広がりにもなっています。
あなたも耳にされたことがあると思いますが、江戸時代に詠まれた
この秋は雨か嵐か知らねどもきょうのつとめの田草とるなり
という短歌があります。営々としてつとめる米づくりも、ひと度台風がくれば田んぼは流され荒れはててしまいます。この歌には、だからと言って手抜きすることもなく、きょうの一日、今日只今(ただいま)を精いっぱい生きて生きて生き抜いてきた先人の尊い心が伺えます。
この度も、大災害から一週間もしないうちに、被災した人々の苦しみ悲しみの中にも光を見出(いだ)そうとする懸命な姿が伝えられていました。
教祖神のご体験のにじむ
有り難きことのみ思え人はただきょうのとうとき今の心の
という御神詠そのままの心に頭が下がります。
なお、あなたもご存じの、昭和27年に戦後の復興を祈り願って復活された宗忠神社御神幸(ごしんこう)は、60回という節目の御祭りとなって去る4月3日に斎行されました。例年と違って、今回は協賛参加の郷土芸能の方々にはご遠慮いただいて「祈り」ひと筋の御神幸となりました。御旅所(おたびしょ)・後楽園(こうらくえん)で私と共に祭事をつとめた教師方は、大元と後楽園との往復の5時間余り屋台車の上でお祓いを上げ続け、子どもみこしの子供たちはいつもの“ワッショイ、ワッショイ”に代わって“ガンバレ! ニッポン!”と叫び続け、婦人会有志の皆さんは義援金の募金箱を胸に沿道の人たちに呼び掛けながら歩いてくれました。
3月13日から、若い人たちが繁華街に立って毎日続けてくれている募金活動と相まって、今年の御神幸は一層身の引き締まった有り難い御祭りとなりました。
右、ご報告旁(かたがた)お便り申しました。くれぐれもお大事に。