復活60回目の御神幸
平成23年3月号掲載
来る4月3日に迎えます宗忠神社御神幸(ごしんこう)は、戦後の昭和27年(1952)に復活してから60回目の記念すべき御祭りとなります。
お道づれの皆様はご存じのように、御神幸の始まりは明治時代に遡(さかのぼ)ります。
江戸時代最末期の文久2年(1862)、京都の吉田山の南端、神楽岡に鎮座された宗忠神社は、時の孝明天皇が御自ら仰せ出された唯一の勅願所(ちょくがんしょ)にもなり、明治維新前夜のわが国のあり方に陰ながら大きな力となりました。維新なって明治9年(1876)、本教は三代宗篤(むねあつ)様を中心とした先輩方の血のにじむような努力の末、布教の自由を得る大願の「別派独立」を果たしました。この時を待っていたかのように、当時の先輩方はそれぞれの地域における教会所の創設に全力を尽くされました。この大きなうねりが霊地大元の宗忠神社ご造営につながっていったのです。
前後6年間の歳月をかけて明治18年4月、教祖神ご降誕の地でありご立教の地である大元に、宗忠神社はご鎮座になりました。そしてその翌年の明治19年、それはちょうど125年前の4月となりますが、第1回の御神幸が斎行されました。御神幸は、教祖神はもとより黒住家代々が二代宗信様まで仕えてきた今村宮の御祭神に、今は宗忠大明神として京都神楽岡にそして大元に宗忠神社として祀(まつ)られた教祖神を、神様同士のお引き合わせをしようとの熱い思いで始められたのでした。
今に伝わる御神体の鎮まる御鳳輦(ごほうれん)をはじめ主な御道具は、すべてこの時に使われたものです。ということは、先輩方は、壮大な宗忠神社建立につとめながら、いわば同時進行で御神幸の御道具も用意されていたのですから改めて感服します。
神々しい立派な御神幸に心動かされた岡山市中の方々から、今村宮と大元との短い距離で終わらせず市内もお通りいただきたいとの強い要請が次々と寄せられ、明治24年から天下の名園と名高い後楽園(こうらくえん)を御旅所(おたびしょ)にした現在の御神幸となりました。
戦前からしばらく途絶えていた御神幸を戦後復活できたのは、昭和25年に、いまだ空襲の瓦礫(がれき)が残っていた中にもかかわらず、いやそういう時代なればこそとの熱い思いで五代宗和様を中心に斎行された「教祖神百年大祭」に捧(ささ)げられた全国のお道づれの誠ごころあればこそでした。更に、昔の御神幸を知る県民市民の熱意とご協力が相俟(ま)って昭和27年4月18日、御神幸は有り難く復活なったのでした。その当時中学生だった私は、4月18日の夜、両目に涙さえ浮かべてその感激を語り伝えて下さった父五代様の御顔が忘れられません。
この復活なった御神幸から新しく加わった最たるものに、斎主が乗せていただく御馬車があります。これは大正天皇がお使いになっていたもので、孝明天皇(大正天皇の御祖父様)のご信仰を忝(かたじけ)なくした神楽岡・宗忠神社があればこそ下賜されたことでした。後に聞いたことですが、その昔、イギリスに特別注文して作られたものだけに「菊の御紋章」が随所にしっかりと付けられていて、これを取り外すのはひと苦労だったようです。
また、御鳳輦を肩に奉仕する「与丁(よちょう)」と呼ばれる男性方は昔と変わりありませんが、復活なってから娘さん方による「曳綱(ひきずな)」が加わりました。この女性方は、白衣(はくい)を着けて緋(ひ)色の袴(はかま)姿で御鳳輦の前後を紅白の綱を手に歩を進めます。彼女たちの多くは、両親や祖父母からぜひにと勧められて前日から来ていて、私は御神幸前日の教祖大祭の最後につとめる教祖記念館ご拝のときに彼女たちに挨拶(あいさつ)するのを常としています。
ようこそお参りになられたということ、明日の御神幸奉仕の意味、そして今夜は、教祖神が最晩年におつとめになった第一号の大教殿と言えるこの教祖記念館に泊まられることなどを話します。いつもこの時に感じるのですが、娘さん方には緊張とともに明日の奉仕に対する不安でいっぱいの感があります。それは無理もありません。着なれない白衣袴でぞうりを履いて、往復12キロもの道を、しかも衆人環視の中を歩くわけですから。しかし、これまた毎年のことですが、宗忠神社に御鳳輦が御還御(ごかんぎょ)(帰られること)になって私が奉仕の皆様にご挨拶申し上げるときの娘さん方は、体は疲れ切っているはずなのに顔元つやつやと、中には笑顔で話に聞き入ってくれる人もいるほどです。
ここでは、いわゆる達成感とともに、教祖神とのご神縁に結ばれた確信のようなものさえ感じ取れていつも胸が熱くなることです。
また復活なってから始まった奉仕に、御行列の最後尾をリヤカーにほうきを持った方々がいます。これは緋袴の娘さん方とは丸反対に地味な姿で、御行列の後を掃除しながら歩いて下さる笠岡教会所(岡山県)の飛島(ひしま)の皆様です。かつてこの教会所の副所長をつとめた森留太郎という瀬戸内海の飛島のお道づれが、折角の有り難い御神幸がお通りになった後に、馬ふんやゴミが落ちていたのでは御道のけがれになると言って皆様と共に始められた奉仕です。60年という歳月は長いもので、今日ではその世代の孫の世代の方々が、祖父祖母方と変わらない姿形で“奉仕の誠”を尽くして下さっています。
また、御馬車に乗せていただいた斎主の私には、御神幸は数多くの方々と黙礼し会釈(えしゃく)のできる貴重な時間でもあります。
かつてあるご婦人から「日本国を頼みます!」と低いが力強い声を掛けられたことがあります。その日、御馬車が更に進んだ時、恰幅(かっぷく)の良い男性から「日本民族大丈夫なり!」と叫ばれました。この年の御神幸は、長男の副教主とその長男宗芳と三人一緒に御馬車に乗ってつとめていただけに、私はもとより息子孫の二人にも大きな教訓をいただいた御神幸となったことでした。
今年の御神幸ではまたどのような感動をいただくことができるか、楽しみなことです。