御日拝、そして「生き通し」
平成23年1月号掲載
謹賀新年
本教黒住教のいのちと申しましても過言でないのが御日拝です。申し上げるまでもなく、毎朝朝日を拝む御日拝は、教祖神が長い間の重病を御自らおかげをいただいて本復なられたのが御日拝であり、立教の時となる「天命直授(てんめいじきじゅ)」の一大感激の時も御日拝であったことから、御日拝なくしては本教はありえなかったと言えましょう。
勿論(もちろん)、このお日の出を拝むという祈りは、私たちの専有するものではなく、はるかなる太古からわが国の先人先祖方は、一日の始まりとして毎朝「お天道様(てんとうさま)」に手を合わすという日拝を重ねていました。例えば、春分秋分の日を彼岸(ひがん)の中(ちゅうにち)と言いますが、彼岸というのは、此岸(しがん)彼岸の彼岸もさることながら、その語源は“日拝(ひおが)み→ひがみ→ひがん”であるという説もあるほどです。事実、九州のある古い村では、春秋の彼岸の中日、氏神様の神主さんを中心にまずお日の出を迎え、ひねもす夕日が西に沈むまで日拝(ひおが)みを続け、もって先祖先人の霊(みたま)に感謝と敬仰(けいぎょう)の祈りを棒(ささ)げているそうです。
国名を日本と書き、国旗を日の丸、日章旗とするのもむべなるかなの思いを抱きます。
神道山では、都市化の波激しい霊地大元から有り難いお日の出を求めて大教殿がご遷座なって今年で37年、一日として休むことなく、たとえ雨であろうと台風が来ようと御日拝を積み重ねてきています。
この御日拝は、大祓詞(おおはらえのことば)を唱和するところから始まりますが、この時、自らを東天にぽーんと放り出すような思いで下腹からの声で唱えます。大祓詞は、千年になんなんとする長きにわたって先人方が神前に祈りを捧げるときの祈りの詞(ことば)であるとともに、教祖神御自らが心の祓い修行として大切にし熱心につとめて来られた、尊いまさに“神言(かむごと)”です。特に御日拝のときのいわゆる“お祓いを上げる”ことは、わが国の連綿たるものを実感するときであり同時に教祖神の御心をわが身に熱く体するときでもあります。
さらに御日拝において大切なときは御陽気修行です。これは天命直授の時に教祖神が、赫々(かっかく)たるお日の出を丸呑(の)みにして大感激の中に神人一体の場にお立ちになった神秘体験から生まれたものです。物理的には空気が体の奥深くに入っていきますが、あくまで大御神様のご神徳、御光(みひかり)を下腹にいただくつとめです。「道の理(ことわり)」の一節、「御陽気をいただきて下腹に納め、天地と共に気を養う」のところです。なかなか下腹にまで御陽気が入り納まらない人がままありますが、ちょっと稽古(けいこ)すれば誰(だれ)でもできることです。心身ともに清新な活力が湧わき出て全身に満ちてくるのを実感します。思わず“ありがたい! ありがとう!”の言葉が口をついて出てきます。
この“ありがたい”という感動と感謝の心こそ、教祖神が会得された人間として最も清らかな尊い心です。天命直授の時は、あまりの“ありがたさ”に手の舞い足の踏む所を知らずといった感激と感謝の極致に至られました。私たちもその境地を目指して“ありがとうなる”修行につとめることですが、日々の御日拝の中での御陽気修行は、その最たるときと言えます。
特に、その積み重ねの中で「天地と共に気を養う」を、心底実感できるときがあります。天地に溶け込んでいるような霊妙なひとときです。
教祖神は御講釈(説教のこと)に際しても、「天言」と称して、大御神様の御心を御身を通じて語ることを大切にされました。ときには「きょうはお浮かびがありませんので、これにて」と言って高座を降りられることもありました。しかしその御姿に参拝者は、春の気に包まれたような暖かくも清々(すがすが)しいものをいただいていました。
昨年の3月から4月にかけて岡山県立美術館で大展覧会を開催した美術家高橋秀氏は、エロス(いのちの根源)の画家と自他ともに許していますが、いつも“美の女神の降神を得て初めて作品ができる。自分は宇宙の気を表現したいのだ”と言われています。さらにこの美術館の鍵岡正謹館長は“彼の最近の作品は、エロスを元に崇高さを増してきた”と評しています。上手に画(か)こうとか、人がどう見るかは二の次で、自らを空(むな)しくして祈りにも似た思いで美の神の来臨を待つところに、「天地と共に気を養う」場合が現れてくるのだろうと思います。
私たちもこのような境地の上に立って、日拝歌の二番、御神詠の
日々に朝日に向かい心から限りなき身と思う嬉(うれ)しさ
の「限りなき身」を確信できるようになるところを目指します。ここが御日拝、そして御陽気修行の尊いところです。
「天地と共に気を養う」心は、成長して「我が天地か、天地が我か」と言える、この大天地こそわが本体であるという一大確信を生んでくれます。いや、教祖宗忠神がそういう世界へお導き下さるのです。
「この宗忠を師と慕うて来る者は見殺しにはせぬ」、そして「天照大御神様の御膝元(ひざもと)までご案内いたす。皆々様ついて来なされ」のお呼び掛けは、まさにここのところです。
教祖神の“みせぶみ(御瀬踏み)に従う”“みてぶり(御手振り)に習う”という私たちの信仰の極致は、教祖神が日々実践された三大修行-日拝修行、お祓い修行、御陽気修行-の励行の上に、この「限りなき身」すなわち「生き通し」がいただけるところにあります。