伊勢神宮の御白石持(おしらいしもち)行事 感動の参拝奉仕
道ごころ 平成25年9月号掲載
粛々(しゅくしゅく)たる御白石の奉献
「いつもは白布が垂れている第一の門(外玉垣(たまがき)南御門)をくぐり、天皇陛下もそのお屋根の下までしか進まれない第二の門(内玉垣南御門)を通り、さらに行きますと第三の門(瑞垣(みずがき)南御門)の向こうに新しい御正殿(ごしょうでん)がお鎮まりでした。それまでの雲が切れてご陽光が一度にどっと降り注ぎ、新しいお宮は仰ぎ見るのももったいないほど神々しかったですね。まだ御神体がお遷(うつ)りになっていませんのに、もうそこは大御神様がお鎮まりになっているように気高くて、有り難いお宮でした」
御白石持行事の参拝奉仕のすべてを終え、皆さんと安堵感(あんどかん)と心地よい疲れを感じながら大テントの中でくつろいでいました。解団式の始まりを待っている私の隣に座った方が、しみじみ語った感動の言葉です。それは、私も含めて参拝奉仕の1,939名全員の思いであったでありましょう。
精緻(せいち)を極めた匠(たくみ)の技、そこに祈りの込められたものであることが、外玉垣南御門を見上げたときから迫るように感じられました。茅葺(かやぶ)きの屋根の妻の美しくも見事な切り口、その鋭さ、それでいて実に和(なご)やかな気が伝わってきます。
参宮の度に、その近くまで参進することを許されて大御神様の御開運を祈る所もいつの間にか通り過ぎて、その中を拝見することもない内玉垣南御門内に進みます。御白石を戴(いただ)き持つ両手にもますます力がこもります。そして瑞垣南御門、ここ自体を再び間近にすることのないその御門を通り抜けますと、真夏のお日様がさんさんと照る中に、まるで天から舞い降りたような姿の御正殿がお立ちになっていました。それまで仰ぎ見てきた御門の屋根より黒ずんで見えた大屋根だけに、重みも一段と感じられる御正殿です。
日本美の極致がここに御座(おわ)しました。
1400年もの昔からほぼ20年毎(ごと)に62回もご造営を重ねて、寸分違(たが)えることのない御正殿、これぞ日本の根幹になる所! と胸熱くなりました。大御神様の御開運を心中(しんちゅう)で祈りながら、両手にした御白石をそーっと置き供えました。
躍動の御白石車奉曳(ほうえい)
8月3日早暁(そうぎょう)、伊勢の宿の窓から見える大海はまだ真っ暗闇の中にありました。二見浦(ふたみがうら)での日拝式に参拝の皆様方とバスで10分間余り、汐風(しおかぜ)を心地よく受けながら薄明かりの中を進みますと、もうそこには多くのお道づれが背中に“伊勢”の二文字の入ったはっぴ姿でお集まりでした。
赤みを増してきた東天に向かって、打ち寄せる波を前に皆様と唱和する大祓詞(おおはらえのことば)はまことに豪快でした。
海をも呑(の)み込むような御陽気修行の最中(さなか)にお迎えした伊勢のお日の出は、また格別でした。大御神様の御開運、併せて立教二百年大祝祭成就の祈りは、みんなの心をあらためてひとつにして下さいました。
前日の二見(ふたみ)興玉(おきたま)神社での祓いに加えて、まさに身も心も清められた2000名に近い一同が広場に集まりました。「黒住教お白石車奉曳団」の結団式です。この会場の壇上で、私は声を張り上げました。
「立教二百年を明年に迎えるこの年10月に、教祖神以来のご神縁深いお伊勢様の式年遷宮が斎行されること。この大御(おおみ)祭(まつり)に先年の御(お)木曳(きひき)行事に続いて参拝奉仕できるきょうの御白石持行事。どうぞ祈りを込めて御白石を両手に抱いて捧持(ほうじ)して奉献し、大御神様、教祖神を身近に感じつつ、日本人としての己を心深くに有り難く感じ取っていただきたい」と申し上げました。
御木曳行事をはじめこの御白石持行事は、地元伊勢のいわゆる町衆が自発的に取り仕切って斎行されていて、その代表格の4人の方々と御木曳行事以来親しくしてもらっていることから、今回も特別のはからいで私や副教主は自由につとめることができました。
奉曳車の上に30個ほどの樽(たる)に山積みされた御白石を、2本の太い白い綱、それは260メートルの長さだったようですが、この綱をいわば1000名ずつが片手で持って曳(ひ)き、片方の手を天に突き上げ「エンヤー」と掛け声を掛けながら進むのです。
平成18年、19年と2度御木曳行事をつとめた経験から、私はできれば今回も、とのある思いを持っていました。
それは、2本の長い曳き綱の中を行き来して、双方の皆様と息を合わせ心ひとつに、「エンヤー」と叫びつつ腕を突き上げ続けることでした。
出発地点から宇治橋のところまで“おはらいまち”といわれる町筋を800メートルばかり、一時間足らずですが休みなく「エンヤー」ができたこと、それにもまして、その度にお道づれの皆様と目が合い心通い合っての「エンヤー」は大変な感動でした。
上は92二歳から下は幼児まで、「エンヤー」の度に笑顔があふれ、まさに老若男女、童(わらべ)の心になっての清々(すがすが)しい汗を流しました。
この御白石車奉曳の躍動的な“動”の時間が過ぎますと、一転して粛々と宇治橋を渡って御白石を戴いての静かな参進になりました。ただ聞こえるのは踏みしめる玉砂利のザックザックという音だけです。一般の参拝者方も私たちに通り道を開けるように避(さ)けて通って下さり、毎年の参宮で歩く参道もまた違った厳かさでした。こうした新宮(にいみや)に至る絶対の静ともいえる静かな時間。この、激しい動と深い静の両極の狭間(はざま)が生み出す味わいは、他所(よそ)では味わえない独特のものでした。
そして、まばゆいばかりの新宮と、その東向こうに鎮まります古色(こしょく)蒼然(そうぜん)ともいえる現御正殿の御屋根との対比に、新しい「いのち」の生まれる時の近きを実感しました。
暗と明、また動と静、さらには生と死等、対極する働きが出合い交差するところに「いのち」の誕生があることを、感動の中に体感できた、まことに有り難い一日でありました。