京都神楽岡・宗忠神社ご鎮座150年
    黒住教、江戸末期から明治への奔流 その1

平成24年8月号掲載

 すでに度々書かせていただいて来ました、この秋11月3日、4日斎行の京都神楽岡・宗忠神社ご鎮座150年記念祝祭についてですが、ここにあらためて、その大河のごとき流れを辿(たど)ってまいりたく思います。

1. 黒住教立教のとき。教祖宗忠神の「天命直授(てんめいじきじゅ)」
                       文化11年(1814)


 文化11年(1814)11月11日(旧暦)、冬至(とうじ)のお日の出を拝んで得られた、大感激の「天命直授」の意味は、まことに深くまた多岐(たき)にわたりますが、最(さい)たることは、天照大御神観(あまてらすおおみかみかん)と人間観、すなわち天照大御神の真実体と、お互い人間の真実体が明きらかになったことです。
 御神詠(ごしんえい)に、
  天照らす神の御徳(みとく)は天(あめ)つちにみちてかけなき恵みなるかな
とあり、
 御文(ごぶん)に、
 天照大御神は、いっさい万物(ばんもつ)を生(しょう)じ給う大御神
とあります。そして、
  わが本心は天照大御神の分心(ぶんしん)なれば、心の神を大事につかまつり候(そうら  え)ば、これぞまことの心なり。
さらに、
 天照らす神と人とはへだてなく 直(すぐ)に神ぞと思ううれしさ 天照らす神の御心(みこころ)  人ごころひとつになれば生き通しなり
と御教えのように、天地の親神すなわちいのちの大元である天照大御神と、その分霊(わけみたま)=分心の鎮(しず)まる人= 日止(ひとど)まるがゆえの人とは本来ひとつである=神人不二(しんじんふに)、という人間観の確立です。いわばいのちの大元たる天照大御神と人とは、ご分心において直結しているということです。
 天命直授はまた「天照大御神の御開運を祈る」祈りが始まった時です。

2. 玉井宮(たまいぐう)でのお説教 弘化(こうか)3年(1846)

 黒住教の教典である教書の御年譜(ごねんぷ)、弘化3年の項(こう)に、「3月18日備前(びぜん)岡山玉井宮に於(お)いて、惑乱(わくらん)せむとする天下の人心を鎮定(ちんてい)し天照大御神の御神慮(ごしんりょ)を安(やすん)じ奉(たてまつ)らむとの御講釈(ごこうしゃく)(お説教)あり」とありますが、この頃からわが国には大きな変化が、しかも内憂外患(ないゆうがいかん)の兆(きざ)しが見えていました。
 この年1月26日、先帝仁孝天皇(せんていにんこうてんのう)が崩御(ほうぎょ)になり、後に本教とご縁深くなる孝明(こうめい)天皇が皇位を継承されました。江戸(東京)では大火が相次ぎ、アメリカをはじめフランスやイギリスの艦隊がわが国周辺にやって来るなど、21年後の明治維新(いしん)を予兆(よちょう)するような出来事が続いていました。有名なアメリカのペリーの来航は、その7年後の嘉永(かえい)6年(1853)でした。
 神道山の御日拝所から眺める東山(ひがしやま)の中腹(ちゅうふく)に古くから鎮座する神社の玉井宮で、教祖神は毎月十八日にお説教をおつとめになっていました。この日3月18日には、岡山藩士(はんし)の数々(かずかず)に教祖神高弟(こうてい)直原伊八郎(じきはらいはちろう)先生も参っておられ、以下の話は直原先生が書き残されたものの要約です。
 この日、教祖神は不思議な夢を見たと話し始められました。「どこからとも知れずお召(め)し出しの奉書(ほうしょ)が届き、参上しましたところ、そこは立派な大宮のお白洲(しらす)で、ひたすらひれ伏していますと、多くの衣冠束帯(いかんそくたい)の方々が現れられ、その中央の方から、“今まさに天下大乱のとき、その方(ほう)に総督(そうとく)を申しつけるゆえ、世の乱れを鎮(しず)めるべし……”との御言葉。返す言葉もなく“身不肖(ふしょう)なる小子(私)にこのような重き大任を賜(たまわ)ること極めて恐れ多く存じますが、御命(ごめい)の通り身命(しんめい)かけて世の乱れを鎮定(ちんてい)し、大御心(おおみこころ)を安んじ奉る……”とお答え申し上げました。ご一同の皆様、この私の意を体して下さり、世の人々の心の安寧(あんねい)、国の安泰(あんたい)のために共に力を尽くしていただきたい」とのお話でした。
 この年弘化3年は、本教にとりましても大きな節目(ふしめ)の年でした。
 玉井宮のお説教に先立つ10日前の3月8日、教祖神は岡山の児島(こじま)沖で折から乗船されていた船が急な激しい雨風で遭難(そうなん)しようとした時、波風をいかで鎮(しず)めん海津神(わだつかみ)天(あま)つ日を知る人の乗りしにと詠(よ)んで海の神を叱りつけられたところ、たちまち雨風が収まるというおかげが現れました。その船に乗っていた人の中に、鳥取の倉吉の伊藤定三郎(さださぶろう)という舩木甚市(ふなきじんいち)家(本誌連載の“甚市さん”)の番頭をお勤めの人がいて、甚市氏はこの方から本教を知ることとなるのです。
 またこの年、初めての教団規約ともいうべき「弘化3年御お定書(さだめがき)」が、幹部方の手によって制定されました。さらに、今日(こんにち)の大教殿の第一号となる現在の霊地大元の「教祖記念館」建設の議が発表されています。

3. 赤木忠春高弟、孝明天皇に御前講演

 教祖神ご昇天の嘉永3年(1850)2月25日(旧暦)を機(き)に、七名の高弟方が御神裁(ごしんさい)(みくじ)によって選ばれた地に向かって、意を決して布教の旅に出ました。それは、「生き通し」の教祖宗忠神の御心を深く身に体しての、決死の旅立ちでした。
 中でも王城の地京都担当を命ぜられた赤木忠春高弟の活躍は目覚ましく、その名声は関白(かんぱく)(注1) 九條尚忠(くじょうひさただ)公にも届き、嘉永5年(1852)、赤木高弟は九條邸(くじょうてい)に招かれて、折から病の床にあった令嬢夙子(あさこ)姫に「祈り、説き、取り次ぐ」ところとなりました(注2)。心開いて活(い)きて大感激の中に本復なった姫は、すでに孝明天皇のお后(きさき)の身であられただけに孝明天皇の知られるところとなり、赤木高弟は御前講演申し上げる光栄に浴しました。その時に賜った御製(ぎょせい)が、玉鉾(たまほこ)の道の御国(みくに)にあらわれて日月(ひつき)とならぶ宗忠の神です。
 この「日月とならぶ宗忠の神」と仰(おお)せられるところに、赤木高弟が教祖神の天命直授によっ会得(えとく)された本教の核心のところを、お話し申し上げたことが分かります。それは、孝明天皇が、皇室にあっては当然の「皇祖(こうそ)天照大御神」は、その奥に、天地(てんち)の親神天照大御神という、宇宙的な大生命としての天照大御神を確信された証(あかし)と拝することです。

 (注1)関白 昔、天皇陛下を補佐し政務を執(と)り行った最高位の大臣。
 (注2) 真弓常忠先生著「孝明天皇と宗忠神社」では夙子姫の病が“安政5、6年頃”(本著17頁)となっていますが、それ以前の嘉永5年6月17日に夙子姫の第一子が亡くなられて夙子姫が病に伏せられていますので、この頃に赤木高弟のお取り次ぎがなされたと思われます。