私の恩師
平成24年7月号掲載
先年、出張先の教会所で、かつて小学校の教職にあった方から私の小学生時代の先生のことを尋ねられ、久しぶりにその頃の自分に思いを巡らせて懐かしさいっぱいにお話し申し上げました。今号は、いわばその再録版です。
小学校の2年生の時に終戦を迎えた私は、まさに戦争の真っ只(ただ)中に小学校1年生になりました。このことは度々お話ししまたこのページにも記したことがありますが、1年生の私にとって担任の先生は格別の方でした。赤井繁子といわれたこの先生の笑顔は、目を閉じると今もありありと浮かんできます。その当時、教職員用の便所は別棟にあったのですが、ある日トイレから出て来られた先生に、私は「先生、なにゅう(何を)しょうたん(していたの)」と尋ねました。先生はにこにこ顔で「宗晴ちゃん、先生ね、おしっこしてたの」。この時の驚きは今もはっきりと残っています。またある日の昼時間、職員室の前を通った私は、ドアの向こうに赤井先生が弁当箱を開いて食事していらっしゃるのを見てまたまた驚きました。「先生がご飯食べてる……」。先生を神様のように思っている私には、こうしたことがすべて不思議だったのです。長じて親になった私は、3人の子供たちにもまた6人の孫たちにもそれぞれが小学校に入った時、決まってこの話をしてきました。そしてその度に、先生を神様のように崇(あが)めることのできた私は幸せな1年生だったとつくづく思いました。
先生を信じ切っていた小学校の低中学年の私は、幸せでした。4年生の時の担任の岡田先生は、授業中に度々「あゝ無情」を読んで聞かせ、主人公のジャンバルジャンについて熱く語られました。
しかし5年生の時のY先生には、今から思いまして本当に鍛えられました。戦争から復日員した方で、小学校の先生の数が足らなかったところから臨時に教員になった方であることを後に知りましたが、それは厳しい先生でした。授業中になぐられるのはもとより度々チョークが投げつけられ、また時には黒板消しまで飛んできました。さらには、黒板に円を画く時の木製の大型のコンパスで、起立させられた生徒は尻をたたかれました。毎日、何人かの生徒が声を上げて泣いていました。
私が後にも先にもストライキの首謀者になったのは、この5年生の時だけです。誰に教わったわけでもないのに、クラスの全員と運動場の片隅に車座になって授業をボイコットしたのです。しばらくして校長の正本真澄先生 この方は晩年、神道山に度々足を運んでお参りになり、日拝所への道端に次々と記念植樹もされています この校長先生が車座の私たちの所に来られての話し合いになりました。条件闘争という言葉も知らない私たちでしたが、この時、チョークを投げたりお尻をたたくのはよいが、顔をたたくのと黒板消しを投げること、そしてコンパスでたたくのはやめてほしいとY先生に約束してもらい、教室に戻りました。しかし私たち同級生は、あれからというともう64年にもなる今日も、強い絆で結ばれて楽しい交流ができているのは、この時のつらい体験のおかげではないかと話すことです。Y先生ご自身も、戦争によってよほど深い心の傷を受けられていたのではないかと話すこともある同級生たちです。
6年生の時の担任富山昌夫先生には、本当の教育をしていただいたと今に感謝の念が消えません。その当時に地元にできていたいわゆる新制中学校からは、市内の普通科高校に入学することは難しい時代でした。先生は母に、中学校は岡山大学の附属中学校へ行かせるべく、6年生3学期からの附属小学校への転入学を勧められたようです。6年生の一学期のある時期から、先生の私に対する態度が一変しました。授業中はもとよりあらゆることに厳しい目が注がれました。私は一時、失礼ながら先生に嫌われているのではないか、何か自分が悪いことをしたのではないか等、あらぬことで心を巡らせました。
中でも、毎日の掃除の時間が厳しいものとなりました。6年生になりますと放課後の掃除は、自分たちの教室と廊下、校長室と職員室、講堂と運動場そして便所が一週間ごとに代わっての担当場所でした。とりわけ便所掃除となりますと、その頃のことですから大変なのは糞(ふん)尿の汲み取りでした。小さな身体に合わせたような肥(こ)え桶(たご)と呼ばれた桶を前後に天秤棒(てんびんぼう)で担いで、少し離れた所の学校農地の片隅の肥え溜めに運ぶのです。これを3、4回繰り返してから、便所そのものを雑巾掛けして一日が終わります。一週間が過ぎてやれやれ……と思ったのも束(つか)の間、富山先生は「黒住はずっと便所掃除の班長だ」と言われ、結局、私は2学期の最後まで肥え汲み班長をつとめることとなりました。
先生は当初、肥え桶を担いで歩く私の側(そば)をついて肥え溜めまで歩いて来られました。再び便所まで帰る時間が、気持ちの上で何かしっとりとした時間であったことが心に残っています。今にして思えば、先生が尊いことを話して下さっていたのだと思います。
当初、先生に叱られるのが恐くて嫌々やっていたこの汲み取りから始まる肥え桶担ぎも、よくしたものでひと月もすると要領も分かってきて、仲間に教えたりしながら結構楽しくやっていたのを思い出します。
高校も高学年になって、この便所掃除の意味も分かってきたことでしたが、大学に入学の報告とお見舞いをかねて富山先生の御宅を訪ねた時のことです。先生は何か悪性腫瘍の末期であられたのではないかと思います。神道山の東に横たわる山の麓の矢坂という町の御宅に、静かに床に就いていらっしゃいました。
「黒住君、今村小学校ではよく肥え汲み班長をつとめてくれた」、第一声でした。「君は将来、宗忠様という立派な教祖をいただく黒住教の教主になる。世の中には、一生、肥え汲みをして終わる人もいるのだ。そういう人がいればこそ世の中は成り立つ。この人たちの気持ちの分かる人間でないと宗教者にはなれません」。
私は涙が止まらず、ついには先生の枕元に泣き伏してしまいました。
恩人と呼ぶ先生、人生の先輩に恵まれた私ですが、お道づれの元小学校の先生と話しながら、最初のそして最高の恩師はこの富山昌夫先生であることを改めて確信したことでした。