ステイハングリー、ステイフーリッシュ
(ハングリーであれ、愚鈍であれ)
平成24年5月号掲載
本教黒住教は、仏教の中では真言宗と同じようなところがあるし、また禅宗とも共通するところがあると昔から言われてきました。
真言宗に似ていると言われるところは、いわゆる加持祈祷(かじきとう)と称される祈りにも通じる、本教の「お取り次ぎ」にあるのではないかと思います。祓いにつとめ祈りを込め「天地のいきもの」たるご神徳を取り次いで、病の人ならその病からの平癒快癒を祈ることは、教祖神以来の変わらない尊いつとめです。
また禅宗との場合は、御日拝を「太陽に向かう座禅」と言った人がありますが、御日拝、中でもその中心をなす御陽気修行が座禅に近いのではないかと思います。腰骨を立てて端座し、下腹で息をしながら、しかも時間をかけて息を吐き切り、御光(みひかり)を、まるで水を呑(の)み込むように飲んで下腹深くに納めるのが御陽気修行ですが、教祖神は「御陽気をいただきて下腹に納め、天地と共に気を養い」と説かれて、ここに無心無我になり天地一体に導かれる場があることを実践的に教え示して下さっています。
例えば清流に竹籠を入れ置きますと、水はまるで籠が無いかのように流れ入り流れ出ていきます。それと同じように、御陽光に包まれての御日拝の時に、御光がこの清流のようにわが身の奥深いところに入り出ていくのを有り難く実感できます。そういう時に湧き上がるように満ち満ちてくるもの、この味わいと言いますか、感動はえも言われないものです。それが反対に、心に懸かるものがあるときなど実にこれを祓い切ることこそ祓いの祓いたるところですがそれは「我(われ)」という枠があって籠がバケツ状態になっていて、清流はバケツを避けて流れて中に入ってきません。
ところで昨年秋、アメリカでアップル社というコンピューターの会社を創設して大ならしめたスティーブ・ジョブズという人が若くして亡くなったことが、一大ニュースとなって世界中を駆け巡りました。中でも、この人がアメリカのある大学の卒業式で行った講演における一言が人々の注目を集めました。それは、参禅したこともある彼が学生時代に読んだ書物の中にあった一節だそうですが、ステイハングリー、ステイフーリッシュ(ハングリーであれ、愚鈍であれ)で、その講演もこの言葉で締めくくられました。
彼の言いたかったことをひと口で言うならば、“人間空っぽになれ”ということではないかと思います。
食事ひとつ摂(と)るにしましてもおいしくいただくためには、料理がおいしくできているということもさることながらお腹(なか)が空っぽになっていることが大切です。お腹が減り切っていれば、正直言って何を食べてもおいしいですし、感動もひとしおです。“ハングリーであれ”すなわちいつも精神的に飢えた状態であれというのは、ここのところでありましょう。教祖神が「無念になれ」「無欲になれ」「無を養え」と教えられるところです。
教祖神御神詠の
ことしより三つ子となるもありがたし赤子(あかご)となればなおありがたきかな(御歌111号)
そして、
無きというなきには人の迷うらんなきこそ有るのもとのもとなれ(御歌20号)
を味わって下さい。純粋無垢(むく)な空っぽのところに、猛然と満ちてくるものがあります。これこそ「天地のいきもの」です。
特にジョブズ氏の言う“愚鈍であれ”は、御教えの「阿房(あほう)になれ」そのままです。先代の五代教主は、この「阿房」を「安宝」と書かれていましたが、実に言い得て妙です。
私は学生時代にハンドボールというスポーツに明け暮れましたが、新入生の頃に先輩から盛んに言われていたのが“アホウになれ”でした。とかく頭が先に働いて“何故このようなことをするのか”“このようなことをして何の意味があるのか”をはじめ、浅知恵から来るいろいろ頭をよぎるものが数多くありました。
“頭が憶(おぼ)えるのではない、大切なのは身体が憶えることだ”と再三再四注意されるのですが、なかなか“アホウ”になり切れませんでした。どの道でもそうでしょうが、基礎づくりである基本練習というのは、単調な動きの繰り返しが多く、アホウにならなくてはなかなか長時間続けることは難しいものです。俗に“ 下手(へた)の考え休むに似たり”とか言いますが、小賢(こざか)しいものを捨てて、いわば心を無にしてひとつのことに集中してつとめることの大事を学んだ貴重な体験でした。
そういう意味では「お祓い修行」も、別名“アホウになる修行”と言えるかもしれません。千年になんなんとする昔から、わが国の先人方が神前に祈る祈りの詞(ことば)としてつとめ伝えられてきたこの「大祓詞(おおはらえのことば)」は、日本人の精神、そして祈りの心が込められた一大賛歌であります。しかも日本語の特徴である母音語 アイウエオの五音を中心とした言葉 から成っているだけに歯切れがよく、口をはっきりと開けてしかも下腹からの声で唱え続けますと、一層心祓われて清々(すがすが)しく空っぽになっていきます。実に無を養う時です。そうしたお祓いの上がった時の後味の良さは、また格別です。
いわば「阿房になれ」は、本当の意味で賢くあれということなのです。教祖神御教えの姿なき心一つを養うはかしこき人の修行なるらん(御文149号歌)をあらためてかみしめることです。
神道山の正参道口に立つ石柱には、養無一誠生々大道と刻されていますが、ここに本教の教えが見事に集約されています。
“ステイハングリー、ステイフーリッシュ”はまさにここのところです。
要は常に心を祓うことです。御教えの「常祓(じょうばら)い」の大切は、心に懸かる罪けがれの祓いにとどまらず、惰性という溜(た)まり滞(とどこお)るもの、この“溜まり”を祓い切ることでもあることも忘れてはなりません。
日々新た、日に新たに生きて生き抜くのが御道人生、「生々の大道」なのです。