平成二十年代のはじめに

平成20年1月号掲載

謹賀新年

 平成の時代も20年。当たり前のことですが、確実に世代交代は進んでいます。昭和30年代が“古き良き時代”として感傷的に語られ、60年代さえ懐古される時代です。かつて新たな家族形態とされた“核家族”が当然になり、その家族の中で成長した子供が親になって新たな家庭を築いています。
 時代の変化を悲観的に受け止めるものではありませんが、宗教者として時代に即応したつとめが果たせているだろうかと反省させられます。今の子供たちの家に神棚や仏壇があるとは思えませんし、もしかすると子供たちのおじいちゃんやおばあちゃんの家にも、神様や仏様、またご先祖様が祀(まつ)られていないのではないかと思うのです。
 申し上げるまでもありませんが、「宗教心」は幼い頃からの習慣で育(はぐく)まれるものです。今、家庭で手を合わす習慣を指導できる宗教者であらねばと強く思っています。

 あらためて、明けましておめでとうございます。
この一年(ひととせ)の、お道づれの皆様の御開運を心よりお祈り申し上げます。冒頭、宗教専門の老舗(しにせ)新聞である「中外日報」の要請で寄稿した年頭所感を掲載させていただきました。
 本稿先月号でも触れたことですが、家庭で手を合わす習慣の“復活”を、宗教者が、そして心ある大人が、宗旨・宗派・教団を超えて今こそ本気で取り組まなければならないと思います。
 言葉は“いきもの”です。“核家族”という言葉が使われなくなってきたのは、その必要がなくなったからです。すなわち、“家族”といえば“核家族”を意味する時代に変わったのです。その証拠に、わざわざ“3世代家族”という新たな言葉が定着しました。変化を嘆くのではなく、変えてはならない大切なことを、たとえ方法を変えてでも継承することが重要です。
 かつて神棚や霊舎・仏壇は、各家庭の奥の間に“その昔から”ありました。若夫婦や子供たちが毎日熱心に手を合わすことはなくても、お年寄りのお祓いや読経の声は日常的に聞こえていましたし、ご先祖様への毎朝のお供えが子供の役目という家も珍しくはありませんでした。「人様からの“いただきもの”は、まず御神前に供えてから“お下がり”を頂戴する」というわが家の慣わしも、決して“教主宅”だけの特殊な伝統だとは思いません。そういえば、「こりゃぁ、おいしそうじゃなぁ…!」と思いながらお供えした“いただきもの”を、二拍手して即座に下げてきて、祖父(五代様)から「教祖様が召(め)し上がるひまがないのぉ…」と優しく叱(しか)られたことを懐かしく思い出します。
 若いうちから信仰の大切に気づくに越したことはありませんが、いつの時代も若者は自力で生きていると勘違いするものです。あえて申し上げれば、若い人が現実逃避の神頼みに強い関心を寄せる方がよほど危険です。ただ、今まで通用した「ある程度、年齢を重ねれば…」という考えも改めねばならないと思うのです。それは、今までは日常生活のどこかに“信仰の種”が蒔(ま)かれていたからです。たとえ自分の家に神様やご先祖様が祀られていなくても、おじいちゃんやおばあちゃんの家の座敷には床(とこ)の間があり、そして神棚や仏壇がありました。今は、座敷も床の間もないマンション暮らしのおじいちゃんやおばあちゃんが多くいらっしゃる時代です。
 幸いにして本教のお道づれには“3世代家族”が多く、「うちには関係ない…」と思いながら本稿をお読み下さっている方も少なくないかもしれませんが、平成20年代の初頭に臨んで、あえて時代の変化を冷静に見つめてみました。これもひとえに、次代を担う子供たちに「お道信仰」という宝をしっかり伝えることのできる親・大人であっていただきたいという強い願いから以外に理由はありません。
 本年から、「深めよう」(平成20年・21年)、「広めよう」(22年・23年)、「強めよう」(24年・25年)と修行目標として掲げられた「教祖様とのご神縁」は、26年の「立教200年大祝祭」に向けて、お道づれ一丸となって教祖様との“ご神縁むすび”に徹していこうという決意表明です。心新たに、ともにつとめてまいりましょう!