黒住“宗”“忠”7人衆の「伊勢参り」

平成20年3月号掲載

 毎年正月、教主様のお供(とも)をして新春参宮を謹行していますが、今年はとりわけ思い出深い伊勢参りになりました。黒住家(大元家)の男衆、すなわち教主様(宗晴)、私(宗道)、私の長男(宗芳)、公室長(忠親)、公室長の長男(忠且)、同次男(忠充)、同三男(忠修)という“宗”“忠”7人衆による神宮参拝のおかげをいただいたのです。
 1月21日の公式の参宮日程に先んじて、19日に出発して松阪に1泊、翌20日に外宮(げくう)参拝の後、神宮徴古館(ちょうこかん)を拝観してから内宮(ないくう)参拝、翌日が月曜日なのでその日のうちに高校2年生の宗芳が3人の小学生の“弟たち”を連れて帰るという計画でした。
 松阪に泊まったのには理由がありました。江戸時代から本教参宮者の定宿で、宿帳等は明治初期の火災で焼失しているものの、教祖様もご参宮の際に宿をとられたと伝えられる老舗(しにせ)旅館「鯛屋(たいや)」を1度訪ねようと、教主様がかねてお考えになっていたのでした。昔ながらの旅籠屋(はたごや)で、7人が枕を並べて寝るというのも魅力でした。松阪に到着後、まず「本居宣長記念館」を見学してから「鯛屋」に入りました。
 「屋号も『ありがたい』『めでたい』から黒住教の方が命名して下さったらしい」と話す女将(おかみ)が見せてくれたのは、明治23年発行の「伊勢みやげ旅寝之友」という今でいうガイドブックで、そこには「旅館鯛屋は50余年前の開業にして、(中略)今の主人は神道黒住派の熱心なる信仰者にし敬神の心深く…云々(うんぬん)」とありました。教書の「伊勢参宮心覚」に「26日六軒という処(ところ)4つ過に支度いたし 夫(それ)よ り 松坂行(後略)」という件(くだり)がありますが、女将に尋ねると六軒という場所はすぐ近くとのことで、旧館の座敷でくつろぎながら教祖様のご参宮に思いを馳(は)せたことです。
 翌朝、宇治山田までは各駅電車でのんびり移動。参宮のたびにお世話になる「勢之國屋(せのくにや)」の中村基記社長に迎えてもらって、まず外宮に参拝しました。社長夫人のご実家が東京大教会所所属のお道づれで、今まで以上に本教とのご縁を有り難く感じて下さっている当代社長なのです。
 外宮では、幡掛正浩元神宮少宮司(後に本教学事顧問)の頃から諸々お世話をいただいている、神宮禰宜(ねぎ)の奥西道浩祭儀兼営繕部長の出迎えを受けました。皆で御垣内(みかきうち)参拝のおかげをいただいたことですが、参拝記帳には教主様以下全員が毛筆で署名をしました。「鯛屋」の宿帳で“稽古(けいこ)”をしていましたから、子供たちも立派に自筆の記名をすることができました。
 外宮参拝後、御宝物が展示されている徴古館では、教主様と御同名の堀川宗晴館長の案内を受けましたが、そこで「昭和28年調整・昭和49年撤下」と掲示された「皇大神宮正殿御扉」を拝観しました。目の前の御扉が設(しつら)えられていた、戦後初の遷宮に際しての御正殿の「うだつ」(梁上の束柱)こそが本教大教殿の御扉であることを思い、感動を新たにしたことです。
 感動といえば、明治40年に黒住宗子(むねやす)管長(四代様)名で神宮に100圓(えん)の献納がなされており、その浄財を元に同42年に建てられたのがまさに神宮徴古館で、今年がちょうど竣工100年になることを館長が感謝を込めて話して下さったのです。明治40年といえば、明治期に5回行われた「萬人参り」の最終回のときであり、同38年のお生まれである五代様の初参宮で、しかも神宮の玉砂利の上で初めて“あんよ”ができた記念すべき伊勢参りでした。四代様の神宮への思いと五代様の初参宮の話を、六代様からその子(七代の世代)と孫(八代の世代)が100年の節目の徴古館を拝観した際に聞けたことは、ご神慮としか言いようのない思い出となりました。
 お正月の参詣者で大変な賑(にぎ)わいの内宮でも御垣内参拝をさせていただき、昼食後宗芳以下子供たちは伊勢を後にしました。
 神宮とのご神縁の深さを子供たちと共有できた今回の参宮でしたが、「きょう、一番嬉(うれ)しいのは誰だ…?」という教主様の質問に、間、髪を入れず「お祖父ちゃん!」と小学2年生の忠修からも“ご名答”が飛び出すほど、教主様の笑顔が印象的な7人衆の伊勢参りでした。