「ASEM 異なる信仰間の対話会議」に政府代表として出席させていただいて(1)

平成20年7月号掲載
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 去る6月3日から3日間、オランダのアムステルダムで開催された「第4回アジア欧州会合(ASEM)異なる信仰間の対話会議」に、私はわが国の代表として出席させていただきました。本稿先月号で紹介いたしましたように、外務省担当官以外で日本からの出席者がこの会議に派遣されたのは初めてのことであり、しかも政府代表として出席という、まことに光栄なことであるとともに大変な重責でしたが、お道づれの皆様のお祈り添えに勇気と安心をいただいて、おかげさまで職務を全うして帰国することができました。心からの感謝を込めて、会議の報告を申し上げたいと思います。

 6月1日、「ついたち御日拝」と開運祭で教主様から直々の御祈念をいただき、急なご案内にもかかわらず駆けつけて下さった近隣教会所所属のお道づれ有志の方々からの心温まる激励と見送りを受けて神道山を出発、空路上京して成田空港近くのホテルにて同行スタッフと合流しました。この度の会議は、いわば実務者会議で、全体会議と分科会での協議が中心となり、「貧困の削減」、「宗教教育の課題」、「デジタル社会における宗教」、「国家の宗教政策」の内のいずれかを選択して議論を深めるものでした。「貧困の削減」の分科会に出席することになっていた私は、まずきちんとした持論を述べてから議論に参加するべく提言書を準備していました。
 2日正午過ぎの便で日本を後にして、時差の関係で同日夕刻に、11時間のフライトを終えてアムステルダムのスキポール空港に到着しました。政府派遣ですから、有り難いことにエグゼクティブ席が手配されており、実に快適な空の旅でした。同行のWCRP(世界宗教者平和会議)日本委員会の事務局員と外務省アジア欧州協力室主席事務官と代表である私の3人が“チーム・ジャパン”の構成員でしたので、翌日からベストを尽くせるように、まずは前祝いの乾杯をして会議に備えました。
 3日、いよいよ会議初日の朝、幸先良くと申しましょうか、実に嬉(うれ)しい電話がかかってきました。電話の主は今もオランダの国会議員として活躍されているエリカ・テルプストラ女史。平成2年に神道山で開かれた「神道国際研究会」に出席して、何よりも御日拝に感激して涙され、以来毎年の年賀状を通じてだけですが親交を続けてきた方でした。18年前と全く変わらない情熱溢(あふ)れる大きな声で私のオランダ入りを歓迎してくれた彼女は、現在担当している北京オリンピックのオランダ選手団の政府役員の仕事が多忙を極めているとのことで、私と会えないことを詫(わ)びながら会議の成功を祈って下さいました。事前にメールで今回の訪問を知らせていたのですが、返事がないので諦めていたところへの大変嬉しい激励電話でした。
 会議出席者登録をして代表者用の赤い紐(ひも)の名札をもらった後、出席者が忌憚(きたん)なく発言できるようにとの配慮からか、まずは運河の街アムステルダムの市内観光クルーズ(巡航)に出かけました。
 宗教改革の中心地の1つであったアムステルダムはカルヴァン派と呼ばれる新教の勢いが特に強かった所で、多くのカトリック教会が破壊されたりプロテスタント教会に変えられたりした宗教対立の歴史を色濃く残している街でもあります。過去の経験から学んで、キリスト教各派に限らずイスラム教や他の宗教が共存している現状説明を、市内を巡る船の中で聞きました。船内で同席した方は、アイルランド政府代表のジョン・ハスキンス氏という方で、いただいた名刺には「Office of the Minister for Integration Justice」と書かれてありました。「正義統合大臣」とでも訳すのでしょうか。正義と正義を掲げて対立する宗教間の調停が、いかに重要な政治的課題であるかを伺える彼の役職でした。公(おおやけ)の政府間協議の場での宗教間対話を取り進めるこの会議の意義を、改めて学んだことです。
 90分のクルージングを終えて、開会式が行われた元キリスト教会に、40カ国からの185人の出席者全員が集合しました。外観は隣接する建物と変わらないこの会場は、もともと天を突くようなゴシック建築のカトリック教会であったものが、先述のようにプロテスタント教会として改築して使われ、現在は複雑な宗教対立の歴史を物語る記念堂として保存されています。内部はキリスト教会として使われていた当時のまま(さすがに十字架はありませんでしたが…)の大聖堂に、昼食パーティーの準備が万端整えられている光景はいささか異様でしたが、考えてみれば祭典と説教の後、御直会(おなおらい)の場としてお道づれが和気藹々(あいあい)に盃(さかずき)を交わす教会所の風景と同じと思えばかえって自然で、「昔から神様の前で心通わせて楽しく過ごす御直会の伝統が彼らにあったなら、歴史も変わっていたかもしれない…」と不遜(ふそ)ながら思ったことでした。
 食事の前に、アムステルダム大学のジェームズ・ケネディ教授によるオランダ宗教史の講義が行われました。厳しい対立と抗争の末、現在の宗教的寛容性が培(つちか)われたという講義終了後、自席に戻られた教授を訪ねて、私は思い切って1つの質問をしました。
 実はこの度の大役を仰せつかった際、私は佐藤行雄元国連全権大使にお電話を差し上げていました。西暦2000年の「ミレニアム世界平和サミット(国連宗教サミット)」の日本使節団幹事長をつとめたのが縁で親しくしていただくようになった佐藤元大使に、外務省からの要請で代表として彼(か)の地を訪れることになった旨を伝えると、激励の言葉とともに1冊の本を勧めて下さいました。「Murder in Amsterdam(アムステルダムでの殺人)」と題されたその本は、有名な画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホが大叔父であった映画監督のテオ・ヴァン・ゴッホ氏が、4年前にイスラム過激主義者によって殺害(処刑)された事件を取り上げたもので、それがいかに衝撃的な出来事であったかは「Limit of Tolerance(寛容の限界)」という副題からも伺えました。
 オランダの宗教的寛容性を述べたばかりのジェームズ教授に、この本で知った衝撃の事件の国民への影響を尋ねることは失礼かとも思いましたが、聞いておかなければならないことと思って伺うと、教授は非常に真剣な眼差しでこちらを向いて丁寧に答えて下さいました。
 「実に悲しい出来事でした。国民の多くは動揺し、そしてイスラム過激主義者への激しい怒りと非難が起こりました。それは当然のことですが、同時に過激主義者への非難をイスラムそのものに向けてはならないという主張がなされたのも事実です。解決したとはいえない事件ですが、寛容を重んじる姿勢に変化はないと私は考えています。答えになったでしょうか…?」
 9・11テロ以降、世界中が直面することになった大問題ですから、もとより明快な回答をいただくために質問したわけではありませんでした。私は教授に心からお礼を申し上げて席を辞しました。誰もが予想できる無難なコメントを聞いただけかもしれませんが、きれいごとでは済まされない苦しい胸の内を分かち合うこと、それが橋渡しへの大切な1歩なのではないかと改めて思いました。
(つづく)