教祖様との“繋ぎ(つな)手”になろう② ―「御(み)しるし」を“手立て”として―
平成21年8月号掲載
今、全教団的に普及を呼び掛けている「御(み)しるし」の重要性を私なりに説明させていただいて、本稿先月号でお話しした“繋ぎ手”として、お道づれの皆様のご協力をお願いしたいと思います。 平成15年3月号の本稿で、私は“拝む対象”として「天照大御神、八百萬神、教祖宗忠神」の御三神が認(したた)められた紙の御神札(ごしんさつ)の活用を呼び掛けました。東京支庁長・東京大教会所所長を拝命して丸一年になる頃でしたが、都会ではお道づれの中にも、御神前(神棚)と霊舎が祀(まつ)られていないお宅が意外に多いことに気付いたからでした。そこで、すでに新年の家祓(やばら)い用の御札(おふだ)として用いられていた紙札(かみふだ)に厚紙の背当て(芯(しん))を入れて立て掛けられるようにして、本部布教課から勧めてもらったのですが、実はそれほど反応はありませんでした。どうやら、家祓い用の御札に別の使い方を付け加えた紛(まぎ)らわしさと、普及の対象が既存のお道づれではなく、そのお子さんやお孫さんであることを明確に示し切れなかったことが反応不足の原因のようでした。引き続き、“拝む対象”の無い方を対象とした対応策を協議しましたが、「お道づれのお宅には御神前と霊舎が正しく祀られることが本来の姿であり、且(か)つ先決事項であって、新たなものが御神前と霊舎に代わるものであってはならない」という正論と、「いま肝心なことは、“拝む対象”の無い家庭に日々手を合わす習慣を取り戻してもらうことであり、そのためには扱いやすく求めやすいものを至急準備すべき」という現実との打開策を、非常に重要なことだからこそ慎重に検討してきました。
結果的に、御三神の御神名が記された木札(もくさつ)が新たに設(しつら)えられたことで、台座とセットにした「御(み)しるし」の誕生となりました。
別掲の「ご案内」にも記載されているように、親元の御神前と霊舎は電話機で例えると“親機”で、「御(み)しるし」は“子機”です。コードレスの子機は、親機が本局と繋がっているからこそ通話ができるのであって、携帯電話のようにそれ自体が本局と直結しているものではないという考え方です。デザインにこだわったものなどの特別な“拝む対象”もあれこれ考えましたが、全く新たなものでは違和感がありますし、いつの間にか“親機化”してしまう心配もありました。その点、木札(御札)は、古来神社で取り扱われてきた“拝む対象”に他(ほか)ならず、それでいて御社(おやしろ)(御神体)ではありません。基本的に、おかげをいただいたらお礼参りして返却するのが伝統的な習わしです。「御(み)しるし」は、定期的にお返しして新たに拝戴(はいたい)することを義務付けてはいませんが、いずれきちんと御神前と霊舎を祀ることを目標にして、親元から離れて暮らすお子さんやお孫さんが、まずは朝晩の拝礼の習慣を身に付けるための“手立て”です。「求めやすいし、毎日のお供えの必要もないのなら、わが家も『御(み)しるし』で…」などと、親元であるお道づれの皆様が安直に考えてはいけません。それどころか、“子機”の分まで、しっかりと“親機”から祈りを込めていただかなければなりません。
今も昔も、若いうちはなかなか信仰心は芽生えないものです。それでも、一緒に暮らしているお年寄りのお祓いやお経の声が聞こえたり、ご先祖様へのお供えやお墓掃除の手伝いをしたり、また近所や親戚付き合いが密接であった頃は、日常生活の中で“信仰の種”が蒔(ま)かれていたように思います。生活スタイルの変化は、こうした見えない“おかげさまの心”を伝えにくくしています。かつて後ろ姿で導いていた方法を、「御(み)しるし」に向かって手を合わすお子さんやお孫さんの後ろから背中を押してやる導き方に改めてでも、“繋ぎ手”として、教祖様との“ご神縁むすび”への献身努力のほど、何とぞ宜(よろ)しくお願い申し上げる次第です。
