山本徳一先生のこと

平成23年11月号掲載

 戦後間もない昭和21年(1946)に、五代宗和教主様の理解と協力を支えに「社会福祉法人天心寮」を開設した医師山本徳一先生(1878-1976)は、岡山を代表する偉大な社会福祉活動家として県内外に知られる立派な方です。実は、大正5年(1916)から6年間、黒住教由津里教会所(現岡山県赤磐市)の所長を務め、昭和18年(1943)にはお道づれ最高の栄誉である天心衆に列せられている、お道教師の大先輩でもあります。
 この度、私は教団とご縁の深い川崎医療福祉大学からの依頼で、山本徳一先生を顕彰する勉強会の講師を務めることになりました。長年天心寮の理事を仰せつかりながら勉強不足でしたので、講師依頼を先生の偉業を学ぶ良い切っ掛けにすることができました。昨今のことですから、まずはインターネットで「近代の岡山における社会事業の特質と展開過程」(二宮一枝岡山県立大学教授著)なる専門書を入手して「山本徳一と健康文化村の創成」と題された論文をはじめとした資料を読んで理解するとともに、徳一先生の孫で現在の天心寮寮長の山本光佐氏を訪ねて思い出の話を伺い、また同じく孫(光佐氏の弟)で東京大教会所所属教徒である山本喜丸氏からもエピソードを聞かせてもらいました。
 医師を志した山本徳一先生は、青年期の九年間を大阪と東京で医学生として苦学し、明治38年(1905)医術開業試験に合格後、「帰郷して開業してほしい」という親と村の人々の懇望により岡山県赤磐郡鳥取上村大字由津里(当時)に医院を開業しました。東京での在学中、当時日本基督(キリスト)教団の本郷教会の牧師であった後の同志社大学総長海老名弾正師との交流があったそうです。海老名師といえば、本教を「日本を代表する宗教」として海外(英国・エディンバラ)で紹介した明治期を代表する日本人キリスト者です(師の講演録「基督教の觀(み)たる黒住教の眞理(しんり)」[復刻版]日新社刊をご参照下さい)。私は、師と山本先生との間に交流があったことを驚きと感激をもって知りました。
 故郷に戻った山本先生を待ち受けていたのは、衛生状態の極めて悪い村の人々の生活という現実でした。「どんな病気もけがも、何でも診た(治療した)」(光佐氏談)とのことですが、とりわけ非衛生状況下での出産による乳児死亡率の高さの改善こそ使命と決意し、その後の生涯を幼き子供たちの救済のために捧(ささ)げられました。
 大正4年(1915)、村長や地元の石相尋常小学校の校長らの協力を得て「母の会」を設立。母親や出産前の女性を集めて、妊娠中や出産時の心得、乳児期の衛生について熱心に指導した結果、県平均を大幅に上回っていた乳児死亡率は4年後には平均以下になりました。そして大正10年(1921)には、親の目が届きにくくなって事故が多発する農繁期に子供を預かる「農繁期託児所」を設置するなど、農村ならではの事業を始め、「鳥取上村小児保護協会」として積極的に社会福祉活動を展開されました。
 「天心寮概要」によると、「昭和21年9月27日に、宮中に於(おい)て社会事業御下問の光栄に浴したので、この光栄は日頃信仰する宗忠神の御神徳と存じ、宗忠神社に御礼参した序(ついで)に、黒住教管長黒住宗和様に拝芝(はいし)し、戦後世態のあれこれを語らへるうちに戦災困窮児の話が浮(うか)みあがり、協会設備利用の運びに至った」(原文のまま)と、戦後の協会事業の転換期が明記されています。ここに「黒住教天心寮」としてスタートした、現在の「社会福祉法人鳥取上小児福祉協会天心寮」が開設されたのです。
 「黒住教信徒や黒住教婦人会の物資寄贈寄附金等により、辛うじて運営できた御神徳の身にしむ有りがたさをしのぶ」(同概要)と記されているように、五代様のご教導による教団の全面的な後援で終戦直後を乗り切ることができた天心寮は、昭和24年(1949)の児童福祉法の実施により助成金等を得られるようになって、運営を安定させることができたそうです。
 現在は、保護者のいない児童や虐待されている児童、その他環境上養護を要する児童を預かる児童養護施設として、今も地域に欠かせない存在である天心寮に、本教は「ありがとうございます運動」の浄財を通して支援を行っています。本教の社会活動の原点とも言える山本徳一先生のご事績、そして五代様の御心に対して敬仰(けいぎょう)の誠を捧げる次第です。