掛け替えのない英国留学から四十年
教主 黒住宗道
今年という年を話題にする「道ごころ」が続きますが、四十年前の昭和六十一年(一九八六)から二年間、私は英国国立ロンドン大学に留学して、今も親交の続く大切な友人たちと出会い、何物にも代え難い数々の貴重な体験を積ませていただきました。
本誌「日新」に毎月寄稿していました『ロンドンだより ─私の留学日記─』を帰国後に上梓していただきましたので、懐かしく思い出してくださる方もいらっしゃると思いますが、ひと月ごとに振り返って文章にまとめる機会があったからこそ、限られた留学期間をより充実して過ごせたと確信しています。今月は、黒住教教主としての私にとって“掛け替えのない財産である二年間”について語りたいと思います。
まず、母校である成蹊大学を卒業してロンドン大学東洋アフリカ学院(SOAS)に入学するまでの昭和六十一年三月末から八月半ばまでの四カ月半が、今から思えば実に重要な期間でした。すなわち、黒住教学院専修科第十九期生として百日間の“道の元入れ”を行ってから渡英しましたので、彼の地で出会った友人たちからの“質問攻め”に何とか応じることができ、その苦し紛れの対応の積み重ねこそが、宗教者として歩み始めたばかりの私にとって掛け替えのない経験と学びの時間だったと、いつも有り難く思い返すからです。さらに忘れ難いのは、この修行期間中に行われた前々回の「お木曳行事」への参加でした。本教が初めて参加させていただいた「第六十一回神宮式年遷宮お木曳行事」で、揃いの白いハッピと「奉祝」と記されたハチマキを身に着けた約七百名のお道づれの皆さんと共に、「エンヤー、エンヤー」と大きな声を上げて楽しくも有り難い奉仕・参宮の機会を共有できましたことは、日本人として黒住教教嗣(次代教主)として、日本を離れる前に心の柱を力強く打ち込んでいただいたように思います。
いよいよロンドン大学での生活が始まるわけですが、一年目は、英国の大学・大学院への入学資格を得るための特別コースで、ともに学んだ同級生の多くは、その後引き続いて英国内の大学または大学院に進学して然るべき学位を取得し、現在も国際機関や国内外の大学及び研究所、また国際的な経済活動の第一線で活躍しており、私にとってまさに掛け替えのない友人たちです。実は、この秋に東京で四十年記念の同窓会を開催することになり、海外在住者とはオンラインで繫いで旧交を温められることを楽しみにしています。
私の場合、そもそも二年間の留学という約束だったことと、「神道山総まいり」の受け入れ、そして「全国教会所巡拝布教」という帰国後のスケジュールが決まっていましたので、二年目は一年間限定の研究生として大学の講義を受けました。結構自由な立場でしたから、日本語学科のクラスに招かれて“質問攻撃”を受けたり、私の名前を冠した「M・S・S(ミチの仲間達)」という在学生による交流会でイベントを計画したりと、学生としても充実した毎日でしたが、得難い体験として忘れられないのがNHKロンドン支局での衛星放送の番組作りのアルバイトでした。
当時、日本ではいわゆるBS放送が始まったばかりで、予算もスタッフも十分ではなかったからだと思いますが、ロンドン大学の日本人留学生を対象にした翻訳アルバイトに誘われたことが切っ掛けで、「翻訳よりも向いているから…」と「ワールド・ニュース」の番組ディレクター(タイムキーパー)に指名され、週二回担当していたのです。BBCニュースに日本語の字幕を付けて放送する番組なのですが、まだ通信衛星も限られていて電波状態も不安定だったため、不通になるたびに番組内の残り時間を計算してキャスターに伝えるのが最もスリリングで大切な業務でした。「番組を作って放送する」という制作現場を経験させていただいたことを、教主として取材を受ける度に有り難く思っています。
ところで、著書『ロンドンだより ─私の留学日記─』で最も分量の多かったのが、旅の報告でした。後半の「家族への手紙」の大半は旅先から両親に宛てた絵葉書で、それらの写真を表紙の装丁に使っていただいたほどです。もともと旅好きでしたが、とりわけ留学中の一人旅の体験の数々が私に与えた影響は計り知れません。
一言で申せば、「若い時に“よそ者”の体験をしたこと」で学んだ数々です。とりわけ、「自分にとっての当たり前が、決して世界共通の当たり前ではないという当たり前」に気付かされたことでした。私の場合、将来の自分の姿をイメージしやすい立場でしたから、「今のうちにできるだけ将来の自分とはかけ離れたところに身を置いておきたい」という願望が強かったのだと思います。身を以って味わい学習した事々が、その後の世界平和を祈る宗教者の集いや国際的な諸宗教間交流に関わらせていただく上で、掛け替えのない財産になったことは言を俟ちません。
最後に振り返っておきたいのは、これまでにも何度か紹介してきました英国留学中の体験ビッグ・スリーです。
一つめは、弟の忠親(宗忠神社宮司)が「世界平和!」と書いて風船に結わえて神道山から飛ばした紙札を、私がロンドンで受け取ったことです。昭和五十八年(一九八三)十月のご遷座記念祝祭の佳き日に、大勢の参拝者と一緒に当時十六歳の忠親が飛ばした風船が三重県津市の民家の裏畑に舞い落ち、空から降って来た“神札”として三年間自宅の神棚に供えて下さっていたお宅の子供さんがロンドン大学に留学して私と同級生になり、一時帰国した後の正月明けに持って来てくれた…という奇跡的なご神縁です。「教祖宗忠の神様と五代教主様が確かに守って下さっている! そして私たち兄弟を結び付けて下さった!」と確信した深い感動が今も蘇ってきます。
二つめは、異なる宗教を信仰する青年たちと、一台のバスで“鉄のカーテン”の向こうの共産圏諸国(当時)を訪ねて世界平和を祈った「平和バス旅行」での忘れ難い体験の数々。中でも、ナチスによるユダヤ人大量虐殺の現場アウシュビッツ強制収容所のガス室で、一心不乱にお祓いを上げ続けたことです。「祈りという能動的行為」の一大事を初めて実感できたことは、青年宗教者として何よりも尊いことだったと有り難く思っています。
三つめは、一九八八年四月にオックスフォード大学を舞台に開かれた世界各国の政治家、宗教者、科学者、ジャーナリストによる国際会議「グローバル・サバイバル・カンファレンス」に最年少の正式参加者として招かれ、“二十一世紀の大人”としての覚悟と使命を全体会で発言させていただいたことです。九・一一米国同時多発テロが起こった西暦二〇〇一年が満三十九歳であった私にとって、緊迫する国際情勢の中で日本人の宗教者として世界の大和を祈り、諸宗教の協力に微力を尽くしてきた原点は、この時の“決意表明”であったように思います。
昭和六十三年(一九八八)七月に帰国して、いよいよ本格的に日拝に始まる祈りと奉仕の生活に入り、翌年一月に平成という新たな御代を皆様と共に迎えさせていただいたのも、ご神慮以外に考えられません。“留学”と呼べるかどうかは別にして、四十年の時を経て“ロンドンの霧の向こう”どころか目の前に鮮やかに蘇ってくる思い出であり、黒住教教主である現在の私の土台でもある掛け替えのない二年間を振り返ることができたことを、有り難く嬉しく思っています。
