へぇ! そうだったんですね…
宗忠神社御神幸
教主 黒住宗道

 教祖宗忠神御降誕の地であり黒住教立教の地である霊地大元に宗忠神社が建立なった翌年の明治十九年(一八八六)三月二十五日に、宗忠神社御神幸が初めて欽行されて、今年は百四十年。来月五日(日)の「欽行百四十年 宗忠神社御神幸」に、日ごろ教会所にお参りすることの少ないお子さんやお孫さん一家やご親族にも、家族単位でも個人でも構いませんから、「ぜひ参拝していただきたい! できれば、予め申し込んで御行列奉仕をしていただきたい!」という願いを込めて、ご存じの方にはあらためて有り難く、ご存じではない方には驚きと感動をもって読んでもらいたく“宗忠神社御神幸あれこれ”を列記します。

① 昨年ご鎮座百四十年を寿ぎ迎えた宗忠神社の建築工事と同時進行で、総勢一千人近くの奉仕者による先頭から末尾まで約一㎞の御神幸の御鳳輦を中心とした御行列全ての御道具、そして御衣装一切が製作準備されたことが、まず驚嘆の事実です。

② ご在世時に神職として勤務された今村宮に、宗忠神社御祭神として祀られた宗忠の神様をお引き合わせするために始められた御神幸ですが、備前岡山藩主であった池田家から明治になって県に譲渡され一般開放されていた「名園後楽園」を御旅所として、明治二十四年(一八九一)から市中を巡る神幸(祭事や遷宮等で、鎮座する神社から御神体が他所へ赴くこと)行事になりました。

③ そもそも、黒住家のご先祖が今村宮に神仕えするようになった経緯は、戦国時代の武将宇喜多直家が岡山城を増改築するに際して、移設を余儀なくされた三社宮が今村八幡宮と合祀されることになり、その三社宮の社家(神職を世襲する家)であった黒住家のご先祖が御祭神のお伴をして現在の宗忠神社の地に移住したからです。天照大御神と八幡大神宮と春日大明神という“神様トップスリー”を御祭神とする三社宮が合祀されたことで今村八幡宮は今村宮と改称され、現在も社家である今村家とともに今村宮禰宜が長らく黒住家の家業でした。なお、私の曽祖父である黒住教第四代黒住宗子管長(当時の職名)の名刺に「今村宮禰宜 黒住教第四世」と肩書が印刷されているのを見て驚いた記憶があります。

④ 今村宮の氏子の皆さんは現在も神社周辺と岡山市街地に多くいらっしゃいますが、発言力のあった市街地の氏子、すなわち「かつて三社宮の氏子であった人々が、後楽園を御旅所とすることを強く望まれた」とのことで、「さもありなん…」と思います。

⑤ 「岡山市役所編 岡山市史」第五巻(昭和十三年発行)には、御行列が今村宮を出発(御発輿)して「今村竹通及び大野村野田を経て、大供石門別神社迄今村太鼓先導にて御神幸なし給ひ、此所に於て岡山市有志委員御出迎へ申上げ、庭瀬口・瓦町・濱田町・新西大寺町・紙屋町・榮町・下之町・中之町・上之町・石関町」を経て正午頃後楽園に到着(御着輿)。県と市の当局も参拝の上、厳かに祭典がつとめられ、休息の後に午後四時頃出発して「古京・中納言・小橋・京橋・西大寺町より左折可眞町・天瀬・瓦町・庭瀬口」そして大供本通りを経て午後六時頃に帰着(御還幸)と、お通り筋が明記され、数百人の御行列奉仕者の諸役名と担当人数まで紹介されています。

⑥ 岡山市の人々が市中を巡る御神幸を望んだ理由の一つに、徳川家康公(東照大権現)を御祭神として祀る東照宮(玉井宮)の神事として江戸時代に行われていた権現祭という神幸行事の存在があるようです。明治元年に権現祭が廃止されたため、賑やかな“お祭り”を待ち望んでいた多くの一般市民から御神幸は熱烈な歓迎を受けたようです。しかしながら、やがて諸般の事情により継続が困難になり、明治三十九年(一九〇六)を最後に中断されていました。

⑦ 久しく途絶えていた宗忠神社御神幸が、第二次世界大戦による戦災からの復興と世界大和・万民和楽を願い祈って復活されたのは、昭和二十七年(一九五二)四月十八日のことでした。傷み損なわれていた多くの御道具や御衣装が修復され、また新しく設えられ、明治の頃の様子が描かれた「御神幸絵巻」を手本に御行列が編成されたそうです。四十五年間も中断されていた伝統行事の復活に尽力した昭和の先人たちのご苦労を称えて、長らく「復活第〇〇回」という表現で御神幸は欽行され続けました。今年の御神幸は、「欽行百四十年」であるとともに「復活七十四年」(コロナ禍により一回完全中止したため年数表記)であることを忘れてはならないと、私は肝に銘じています。

⑧ 長らく御鳳輦と並んで御行列のシンボルであった御馬車は、大正天皇がお乗りになっていた貴重なもので、宮内庁から下賜されて昭和二十八年(一九五三)の復活第二回から用いられていました。「毎年は無理でも、節目の御神幸には使わせていただこう…」と考えていましたが、経年劣化による馬車の安全性や訓練を受けた特別な馬を遠くから借りて(雇って)、完全舗装整備された公道を進むという経費と公衆衛生上の諸課題を検討した結果、今後も含めて御馬車は使用しないことになりました。どうぞご理解下さい。

⑨ 最後に、本稿でも何度か用いた「欽行」という言葉ですが、「謹み敬って行う」という意味で、どうやら御神幸復活に尽力した先人の誰かが拵えた造語のようです。インターネット等で調べると、宗忠神社御神幸だけの用語であることが分かります。

掛け替えのない宗忠神社御神幸に、皆様の参拝・奉仕を心待ちにしています!

追記:本稿には通し番号を付けていませんが、先月号の「十年の計の『うったての年』」が、教主就任翌月に開始した最初の「道ごころ」から数えて第百一回でした。あらためて、これからの御道隆昌の「うったて」になりますように…。(二拍手)