教書に学ぶ教祖神の親心 四
教主 黒住宗道

 久々に当「道ごころ」にて、「教書に学ぶ教祖神の親心」を学ばせていただきます。

 今回紹介する御書簡は、石尾乾介高弟にとって四度目の江戸詰め(参勤交代による殿様の御供としての江戸勤務)期間中の、文政九年(一八二六)四月付から翌年三月付までの御文四二号から御文五六号までが該当します。いつも申し上げますように、本来は各御文の一言一句を自分自身に宛てられた教祖神からのお手紙という思いで有り難く拝読すべきですが、月に二回(二日と十六日)だけの岡山−江戸間の唯一の通信手段(飛脚便)を通して、実に細やかなお心遣いが示された御文を通読することで、教祖神の石尾高弟に対する親心、そしてお二方のお心の温かくも気高い交流を感得していただきたいのです。

 今回、まず確認しておかなければならないのは、これからいただく全ての御書簡が、文政八年(一八二五)七月二十三日から文政十一年(一八二八)四月二十三日までの約三年間にわたった「千日の御参籠」という大修行に、すでに教祖神が入られている最中に認められていることです。

 宗教を専門的に研究した人々から「悟後の修行」と特筆されてきた教祖神の「千日の御参籠」は、一般的な表現をすれば「一教・一宗・一派を興した教祖・宗祖・開祖と称される“悟りを得た尊師”が、再び厳しい修行に臨んだ特異性に対する評価」と解釈できますが、それ以上に特別で「教祖宗忠神ならでは…」と尊敬申し上げるべき事実が、その修行を「それまでと変わらない日常生活を送りながらつとめられた」ことです。すなわち、今村宮の社家である黒住家の家長としての通常神務を終えてから、その今村宮に参籠する日々を三年間続けられたのです。

 “前置き”が長くなりましたが、御文四二号は文政九年三月三日に岡山を出立した石尾高弟からの着府報告に対する返信として、四月十五日調と記して投函された御書簡です。全てのお手紙に共通する、実に細やかなお気遣いとお見舞いと岡山の皆様の近況報告をなさった後に、「(御道隆昌のため)この上は私の修行にございます…」と、ご自身の「行(修行)」に対する深くも崇高なご覚悟と申しましょうか、ご心情を明かしておられます。そこには、今や師匠と弟子という間柄を超えた“道の友”とお称えすべき石尾乾介高弟の尊きお姿が伺えます。

 おそらく時を同じくして投函された石尾高弟からのお手紙への返信が、五月二日付の御文四三号です。奇跡的な“おかげ(霊験)”しか求めようとしない遠縁でもあった若い衆の古田正長氏に対する気掛かりを吐露されながらも、「一切天に御任せ被成候はゝ誠に誠に不思議に参候物…」と、全てを信じて信せる信心の極意をお示し下さっています。

 手紙という通信手段しかなかった当時に、今でいうところの“チャット(インターネット上でのリアルタイム通信)”状態とも思われるのが、次の飛脚便に間に合うように五月十五日に認められた御文四四号です。この御文の中で、「祈りなばかなわぬことはなきものと 思えど祈る心なきとは まことの祈りには、かなわぬことは無きものと申すこと、心に覚え有りながら、祈る心にならぬこと、はなはだかなしく候。祈りは日乗りにござ候由、本体の祈りにて、かなわぬことは無きことなり」との尊い御教えが説かれました。

 江戸でも熱心にお祓い献読をつとめて教祖神に度々奉告なさる石尾高弟のご修行ぶりを称賛されるとともに、先述の古田氏が熱心に参拝するようになったことをわざわざ記して、「自らの修行をひたすらつとめさえすれば、御道は天地自然の道ですから、無理に心を苦しめる必要もなく、ただ有り難きことだけに目を向けるようにしましたら、次第次第に教えは天より起こるかと存じます」と、この後の御書簡に立て続けに現れる名高い御文(御教え)を予見されたような道を説かれているのが御文四五号です。

 「蛇の御文」と称される御文四六号と「好男子の御文」として知られる御文四七号を、わずか数行で解説しようとは思いませんが、前者は参籠してお祓い修行に徹せられる最中に見た「夢(幻影)」から「離我任天」の要諦を説き明かされ、後者は前年に結婚されたばかりの長女こま様の主人が急逝された衝撃に見舞われた中で説き示された、実に重要な教えが連続して、まさに「天より起きる」ように現出しています。

 また、衝撃と申せば、江戸での若殿様の客死という訃報に接して「一切有る物は無き物なり」と石尾高弟に説き諭された御文四八号(欠番含む)。その事態の収拾をしばらく待たれたためでしょうか、二カ月ぶりに出された御文四九号では、あらためて修行の大事を説かれるとともに「ここに来て口ばかりにてとく道を耳ばかりにてきき給え人」の高名な御歌が詠まれています。

 さらに、ご試練と申すのは失礼かもしれませんが、御逸話「土肥家へのご訪問」で知られる備前藩 首席番頭土肥右近氏の訃報は、さすがの教祖神におかれましてもショックな出来事でしたが、「思い返し候得ば邪は正の本」と、御文五〇号で“心の用い方、養い方”を力強くご教示下さっていることを、後世に道を求める学び徒の一人として心から有り難く思うことです。

 珍しく日付が記されていないお手紙で、御講席の盛況ぶりを紹介された御文五一号がいつ認められたのか気になるところですが、年が改まった文政十年二月朔日付で「もったいなくも道は日の神の御道に御座候。凡そ三千世界に此道を外れたる人は一人も有間敷と存じ奉り候」と信心の目の付け所を明示された御文五四号(欠番含む)、そして、いよいよ五月の石尾高弟のお帰りを前にした御文五六号では「私の近頃の修行の目の付け所は、何事にも物に執着せず楽しむことを務めています。しかし、相対する物を取り除くのではなく、例えば鏡に影をうつすように退けば跡形もなくなるように…」と、相手が石尾高弟だからこそ通じることを前提とした、まるで禅問答のような例話が語られています。

 ところで、三月十六日付の御文五六号の一便前の三月朔日付の御書簡として、後に宛名が切り取られているものの明らかに一森彦六郎氏宛であると伝わる御文五五号が、石尾高弟宛以外の御書簡としては初めて登場します。次回以降増えてくる、若き一森氏へのご教導を通じて、私たちも教祖神の御教えを一層身近に学ばせていただくことになるのです。