天照らす神のみ内に住みながら われと魔道(まどう)へおつるあわれさ(御歌3号)
    身も我もすてんと思う心なる その心をもすてまほしさよ(御歌185号)

平成21年3月号掲載

 先月に本欄で学んだ「任天(天に任せよ)」とともに、教祖様が徹底して御教え下さったのが「我(われ)を離れよ」、すなわち「離我」の教えです。

 「明け暮れ、ただ、我を離れる事ばかり修行せよ」、「惜しい、欲しいを離れるが、道修行の大あずち(あずち:弓場で的を掛けるために土や砂で土手のように固めた盛り土。的山(まとやま)。転じて“標的”の意)」、「我まるで無くなれば天地のむすびし心の活物(いきもの)はじめて目覚め、夢のさめる如くなり」。
 教祖様が厳しく戒められた「我」とは、「自己中心的な本能のままの好みと欲望」とも言える「我欲(個人的な欲得)と我執(個人的な執着心)」です。同じ「欲」や「執着心」でも、「意欲」や「辛(つら)くても貫き、やり通す〝こだわり〟」とは、まるで違います。「自己」の在り方が問われる現代なればこそ、そこのところをしっかり身に修めなければならないことですが、教祖様は次のようにも御教え下さっています。
 「我を離れよと申しても、初めての人は合点(がてん)がいくまい。-手に持てるものを放すのではない。我を離れるのは、一切を天の物と心得る事なり。-あるいは着物を着るにも、我がこしらえた着物だと思うと有り難くなし。これは天より我に着せて下さる…、有り難い事だと喜んで、一切、天の物と心得て有り難くなれば、我が離れる」。「我」を〝切り捨てろ〟でも〝消せ〟でもなく「離れよ」と、私たちに御教え下さる温かい懐の深さ。その一方で、ご自身に対しては「身も我も捨てようと思う心、その心さえも捨てたいものよ」と、徹底して厳しく臨まれる御心の崇高さ。
 「離我任天」という山の頂(いただき)を目指して、教祖様に少しでも近づくべく、ともに修行に励んでまいりましょう。