天地のご安泰と国土の平安を祈り奉る
教主 黒住宗道
能登半島地震から一年、そして阪神・淡路大震災から三十年という今年の一月に、甚大な被害をもたらした両災害にあらためて思いを馳せながら「天地のご安泰と国土の平安を祈り奉る」と題して本稿を執筆しています。
(公財)世界宗教者平和会議日本委員会(WCRP)の理事として、私が責任者を仰せつかっているのが「災害対応タスクフォース」です。国内外の自然災害に際して、WCRPが募金や復興支援の活動に取り組むことを決定した時点で担当する委員会の代表で、具体的な実務を行う事務局からの報告と相談を受けて、支援金の用途や活動内容の決断を下します。日本最大級の諸宗教ネットワークであるWCRPの取り組みですから資金と人員の規模も大きく責任重大ですが、必要かつ為されるべき宗教協力の実践としても重要な役務をいただいていることを有り難く思っています。
東日本大震災を機に発足したタスクフォースの最初からのメンバーですから、今となっては「門外漢」という無責任な言い逃れはできませんが、もちろん私自身は災害対応の専門家ではありません。振り返ってみると、私が「被災地の現場で、苦しんでいる人たちに対して一体自分は何ができるのか…」を、初めて真剣に考え行動させていただいたのが、三十年前の「大震災炊き出し奉仕“わたがし作戦五十日”」でした。
阪神・淡路大震災発生六日後の平成七年(一九九五)一月二十三日から三月十四日まで、各二千五百食分の朝食と夕食を毎日、すなわち一日五千食の炊き出しを五十一日間にわたって行った経験は、実に多くの支援者・奉仕者の皆様の「温かくて甘くて柔らかい『まごころ』」が、まさに大きな“わたがし”のように膨らんだからこそ完遂できたことですが、当時青年宗教者であった私にとって、何にも替え難い貴重な体験になりました。発災直後、二週間後、一カ月後、五十日後の変化を肌で感じながら、“わたがしの割りばし役”に徹することで、災害対応の難しさと大切さ、そして有り難さを学んだ経験は、間違いなく私の掛け替えのない財産です。
実は、翌平成八年(一九九六)二月に起こった中国雲南省大地震に際しての緊急救援活動を通して、国連認定医療NGOで本教とご縁の深いAMDAとの連携が一層強化され、それによって同年十一月に結成されたのが、現在も私が世話役事務局長をつとめる人道援助宗教NGOネットワーク(RNN)です。
阪神・淡路大震災での体験と、AMDAとの連携によるRNNの活動実績があるからこそ、私がWCRPの災害対応タスクフォース責任者という重き務めを果たせているのは明らかです。
そのRNN主催による「阪神・淡路大震災三十年慰霊法要」を、地震発生同日同時刻である先月十七日午前五時四十六分から、RNNの一員である真言宗御室派薬園山長泉寺(岡山市)において営みました。羽織・袴姿で参列した私は、「“行動を伴う祈りと祈りに基づく行動”を諸宗教で協力して行える仲間がいることの有り難さ」を話して、今は何をおいても、能登半島地震と豪雨によって被災した人々の本復を願い、向こう三十年の発生の確立が八割に高められた南海トラフ地震の被害が最小限に止まることを切に望みながら、「天地のご安泰と国土の平安を祈り奉る」と閉会の挨拶をいたしました。
ところで、報告が遅くなりましたが、私はWCRP災害対応タスクフォース責任者として、自分たちも被災者でありながら、被災した他の人たちのために献身的に活動してきた地元ボランティアの方々の激励と輪島市社会福祉協議会への義援金の贈呈、そして全焼した朝市通りの一角で「追悼と鎮魂並びに復興祈願祭」を執行するために、昨年十一月十四日に石川県輪島市を訪れました。
私たちを出迎えて終日案内をしてくれたのが、輪島市中心部の氏神である重蔵神社禰宜の能門亜由子さんでした。彼女は、昨年の元日夕刻の地震発生直後から、雪を溶かして洗った奉納米を炊いておにぎりを作って配り、被災して店を失った料理人たちと二カ月間にわたって延べ十万食の炊き出しを展開した中心人物です。NHKのテレビ番組「新プロジェクトX」でも取り上げられましたから、ご覧になった方も多いと思います。「当分は、神職ではなくボランティアスタッフです」と語る能門さんから、体験談をじっくり聴かせていただきました。
「市役所の職員も氏子の皆さんも、みんな被災しましたが、元々同級生だったり幼い頃からの知り合いだったりですから、ぶつかり合いながらも皆で協力して励まし合いながら行動することができました」
「昔から神社の祭事を毎月行ってきた地域なので、氏子総代さんたちを中心に『前を向いて立ち上がろう…』という機運になるのは早かったように思います。震災翌月の二月には『夏のお祭り(キリコ祭り)を何としてもやろう!』という話になったので、実は御神酒を少しずつですが皆でいただいて気合を入れました」
「社殿は崩れましたが、修理したばかりの保管蔵が無事だったので、漆塗りの自慢の山車は無傷でした。おかげさまで、何とか夏のお祭りを行うこともできました。みんな『さあ、これから!』という時だっただけに、九月二十一日の豪雨水害は堪えました。今も心が折れてしまって立ち上がれない人たちが数多くいらっしゃいます」
「全てを焼失した朝市の方々も、震災と水害の両方の被害を受けた方々も、皆さん当社の氏子です。経験して初めて知ることがたくさんありますが、震災と水害の行政の部署が違うため、申請書ひとつ提出するのも二倍の手間が必要なのです。本当に気の毒です」
「ずっと張りつめていたので、数日前まで私自身が燃え尽きて沈んでいました。このたびWCRPの皆様をお迎えするために『しっかりしないと…』と思ったら元気が出ました。皆様のおかげです。今日は、久しぶりに神職としてご一緒させていただいています」
さすが、平安時代からの御社の代々の社家、能登半島の能門さんの心根の深さと強さに感激し、WCRPとして継続支援を約束したことですが、彼女と最初に挨拶した時に「黒住教様には、いち早くご援助いただき有り難うございました」と、真っ先に御礼を言われたのです。団体名しか把握していなかったので気づかなかったのですが、お道づれの皆様から寄せられた浄財の半分をAMDAへ、残りを、長男宗芳の友人で被災した輪島塗の塗師を通して、能門さんが主宰する団体に届けていたのです。あまりの復興の遅さに、どうしても行政への憤りを募らせてしまいますが、とにかく一日も早い本復を祈りながら、今後も支援を続けますので、引き続き皆様のご協力をよろしくお願い申し上げます。