わが元の姿を尋ぬるという心をうけてよめる
  わが姿たずぬるにまた及ぶまじ ただ天つちに照りわたるもの(御歌209号)

平成22年10月号掲載

 弘化4年(1847)正月、この年の伊勢参宮の代参として教祖様は時尾宗道高弟をお立てになりました。旅支度を整えて出発のご挨拶(あいさつ)に上がった時尾高弟に対して、教祖様は特別懇(ねんご)ろに「どうか天照大御神様にお目通りをしてお帰り下さい」と仰せになりました。
 「はい」と返事をして出発したものの、「大御神様にお目通りするにはどうしたらよいのか…」と、道中そればかりを考え続けた高弟でした。いよいよ伊勢に到着して大前に額(ぬか)ずいても、どうしてもお目通りをすることはできません。そこで、高弟はお祓い修行をつとめながら参宮を続けました。数日経(た)ったある朝、お祓い中の時尾高弟の心に一首の歌が浮かびました。

「唐土(もろこし)の山の彼方の小咄(こばなし)も 耳がなければ聞こようものを」

 その瞬間、御正宮の方から一陣の風が吹いて来ると同時に大御神様とのお目通りを確信した高弟は、直ちに帰路に就いたのでした。教祖様の元に帰着した時尾高弟は、半月を要する道中全く冷めることのなかった感激の胸の内を早速に御神前で説き語りました。とてもお喜びになった教祖様は、「この左京も、ただ今お目通りをいたしました」と仰せになったということです。
 「天照大御神様にお目通りをする」とは、想像もできない話ですが、その大御神様とご一体の場にいらっしゃる御心を教祖様が烈々と詠(よ)まれたのが今月の御教えです。私たち黒住教道づれにあっては、「毎朝の御日拝こそ、教祖様にお目通りをする時」と信じて、只管(ひたすら)感謝、感激一入(ひとしお)の境地を目指して、ともに日拝修行につとめましょう。
 参勤交代で江戸詰めになる若き門人尾関丈五郎氏や田口愛三氏に、
「毎朝日拝にお目にかかり候(そうろう)つもりにござ候。お忘れ下さるまじく候」(御文136号)、
「毎朝お目にかかり候つもりに日拝仕(つかまつ)り候間、ご油断もなさるまじく」(御文137号)
と厳しくご指導下さっている教祖様の御言葉は、私たちに向けられたものでもあるのですから…。