折々はかかる悩みのありてこそ 事無き常の有り難さをぞ知る
折々は物のさわりのあるもよし 是や誠の固めとはなる(時尾宗道高弟詠)

平成22年5月号掲載

 「親孝行したいときには親はなし」とか「病気になって初めて分かる健康の有り難さ」等と言われてきたように、「事無き常(=普段)の有り難さ」は「悩み」によって思い知らされるものです。同様に、失敗や敗北の経験から真の成功や勝利を得たという話は、洋の東西を問わず枚挙に暇(いとま)がありません。望んで必要とするものではありませんが、悩みや障害(さわり)、失敗や敗北が「誠の固め」となって人は成長するという真理は、「苦労は買ってでもせよ」、「他人の飯を食え」等の先人の教訓にも明らかです。

 現代の社会に目を向けた時、技術の進歩によって様々(さまざま)な障害が取り除かれ、不可能だったことが可能に、不便だったことが便利になって、私たちの快適生活は充実する一方ですが、それは同時に現代人の“わがまま化”を助長していると言わざるを得ず、人々は更なる不平や不満を強く感じながら、ますます「これさえなければ、もっと便利で楽になる…」という“切り捨て”思考から離れられなくなっているようです。不都合や障害は常に永遠に存在するもので、いつの時代もそれらをいかに前向きに受け止めて悩みを克服できるかが問われています。

 そこで、まずは今の生活そのものに対して素直に「有り難うございます」と御礼を言うことをお勧めします。現状を感謝して受け入れると、凝り固まっていた気持ちがほぐれて思いもしなかった“感謝のタネ”に気付きます。考えてみれば不平や不満が言えるのも有り難いことです。そして、今月の御教えに示された「悩みや物のさわりのもたらす効果」とも言える有り難さを知ることで、不平や不満の元であった不都合や障害そのものを、感謝とまでは言わずとも、前向きに受け入れることができるはずです。「ありがとうなる」という本教独自の教えは、流行(はや)りの表現を使えば“感謝力”を身に付ける秘策なのだと思うのです。